中学から私立に入る理由
現在受験シーズン真っ只中らしいが、先日友人(男性)とLINEしていたところ、話の流れで私の中高の話になった。
他人から2次・3次・4次流通されて耳に入った情報しかないので、いちいち返事するのが段々めんどくさくなってきて、「決めつけんなーーー!」とLINEで返して会話は終了した(短気)。
彼も含め、私立中学の実態を詳細には把握されていない方も多いため、僭越ながら、首都圏の私立中学出身者を勝手に代表して、私立中学の実態とバカ高い学費を親が払ってわざわざ子どもを私立に入れる理由について語りたいと思う。
私の半生はこちら ※私の母校は名門ではない。
ヒエラルキーの構成要素
男子の目は節穴なので、女子の顔もしくは胸しか見ていないが、女子は中学生の時点ですでに同性を多角的に分析し、冷笑的な視線で総合評価を行っている。
女子校あるいは女子のコミュニティーの中では、主にA~C、3つの要素の組み合わせで、ヒエラルキーが構成される。
当初は、A×B×C、A×B、A×C、B×C……、図版を区分しようと思ったが、複雑すぎて整理しきれないので、今回はA、Bの2軸でピラミッドを構成した(手抜き)。
友人が言う「文武両道」のイメージは、あくまでも生徒獲得に向けた保護者への宣伝、加工されたパブリックイメージであり、女子の中ではスポーツできようができまいが、加点にも減点にもならない。
なお、私の母校に関しては、スポーツが持つさわやかな面は皆無で、12歳にしてすでに老獪な生徒同士、ドロドロの日常を送っていた。
女子は男子以上に、女子を顔で判断するので、
運動音痴の可愛い子 > 運動神経抜群の平凡な顔立ちの子
となる。
ここでいう「可愛い」には、遺伝子的顔の造形やスタイルの良さに加え、髪型や小物・私服などのおしゃれ、ジョークのセンスも含まれる。
こういうことなかなか書きにくいが……。
中学に入学したばかりの12歳の少女のパーソナリティーが、両親からの遺伝や経済的・社会的資本に左右されるのは当然だ。
12歳までは、誰の言動を真似するかで、博愛主義者にもレイシストにもなるので振れ幅が大きい。
無邪気でいられたはずの最後の小学校生活を無味乾燥な受験勉強で終え、いつも睡眠不足で不機嫌で、無垢だけど残酷で、美しいけど醜くて、慈愛に満ちているが厭世的な少女は、中学受験のトンネルを抜けたとき、そこにいる同志の「基盤」を一瞬で見抜く。
私立の女子は、1年生のGW前には、中学受験のペーパーテストをどうやってくぐりぬけてきたかなんて、誰も話してはいない。
前髪をどうやってブローするとか、ブランドものの財布がほしいとか、カレシを夏休み前に切りたいとか、四十路の女とそう変わりはない。
勉強以外の部分で、いかに他者より優位に立つか考えているのだ。
四谷大塚とか日能研とか、いつまでもそんな話題を引きずってるのは幼い男子だけ。
男は時に、駿台模試で東大A判定だったとか、最後の3か月の追い込みで偏差値10上げたとか、私を死んだ魚の目にするような話題を延々に続ける(in 居酒屋)。
私は日夜繰り返される学歴自慢を聞いているふりをしながら考えていた。
「あなたがどんなに勉強できても、早稲田でも、東大でも、マサチューセッツ工科大学でも、12歳でヒエラルキーの頂点にいた女の子には叶わない」
たった12歳で周囲が用意した問いに対して、「社会ってこういうもんでしょ」という半ば諦めの境地で答えを出せる、答えを出すふりができる少女はもう見抜いているのだ。
大人の欺瞞も、見栄も、人生のやるせなさも。
最終学歴は大学でも、パーソナリティが形成されるのは中学校。
私立という場は、必然的に経済的に恵まれた少女が多い。
学力は正しい勉強方法で一定時間机に向かったらあるレベルに到達できるが(変な拘りの強いタイプ、極端に要領の悪いタイプは除く)、もともとの容姿の美しさ、おしゃれのセンス、夏休みのオーストラリアのホームステイ、先天的に与えられた要素や環境の中で培った経験値をすぐに見抜く。
そして相手を値踏みして、総合評価をつける。
高い学費を払うわけ
サラリーマン世帯が、バカ高い授業料を払って中学から子女を私立に入れるのは、いわゆる偏差値の高い大学に入る準備だけではない。
それも大きな理由ではあるが、進学だけ考えるのであれば、難関の公立高校でも家庭教師でも、いくらでも道はある。
なぜ、私立中学なのか?
それは、親の世代は「大人になってから努力しても手に入らない何か」が、私立という限定されたコミュニティーの中に存在することを知っているからではないか?
私の両親はそうだった。
大学の偏差値だけで人生のランクが決まるなら、高校も中学も小学校も幼稚園もどこだっていいはずだ。
パーソナリティーが固まる12~15歳の期間、経済的・社会的資本に恵まれた少女の中で、尊敬を得ることも、嘲笑されることも、「自分の物差しは確かではない」と常に疑いのまなざしを自分自身に向けるトレーニングになる。
(物理的地域ではなく精神的な)田舎者は、延々と大学、正確に言うと受験時の偏差値しか話題にできない。
私立の中学から難解大学に進学し、容姿も綺麗で、センスもあるような女性(ピラミッドの頂点)は、勉強なんてのはできて当たり前で、効率よく女友だちやカレシと遊び(あるは遊んでいるふりをして)、相手の文化レベルに合わせて会話をコントロールできるテクニックを早くに持ち合わせているので、田舎者の学歴自慢を心底バカにしている。
狭い田舎の評価基準だけで大学に入り、社会に出て、「オレ、勉強できるのに、なんか相手にされない。なんで?」と感じるこの現象を、宮台真司は、東大の『鍋パーティー』を引き合いに出し、優秀な若者がカルトにハマる構造を解説していた。
宮台真司は、骨の髄まで麻布中学だな。的確すぎて、残酷だよ。
私立に入るメリット
そんな厳しいヒエラルキー構造の中高6年間、私が得たものは何か?
正しくは、得る機会を両親から与えてもらったものは何か??
それは、自分の目で見ていない情報を、ペラペラしゃべることの恥ずかしさを知ったことだ。
社会には秀才を超えた天才の領域に入る人がいて、絶対にかなわない存在がある。
想像を超えたお金持ちがいる。
幼児期からアートやグルメ、ファッションのセンスを自然と身につけた人の鑑識眼が流行を左右する。
私は永遠に井の中の蛙。
それが私立中学だ。
そして、自分の周囲では当たり前だったが、中学から私立に行くことができる環境がいかに恵まれて、少数派の存在であったか気づくことで一生ものの自信を身につける。
客観性と謙虚さと自信。
私立中学の価値は、多くの人が大人になって気づく、あるいは一生無自覚なことを12歳で早々に認識できる点だ。
ところで去年、学歴も社歴も完璧としか言いようのないスーパーエリート君に仮説をぶつけてみた。
「なぜ、そんなに謙虚なの? もしかして、大学に天才がいたからでは?」
半分正解で、半分間違いだった。
答えは、中学の時点で、自分には絶対かなわない存在がいると自覚したそうだ。
私は彼みたいなエリートではないが、共感しかなかった。
ここまで私の実体験を書いてきたが、最近はダイバーシティ教育もひろがり、中学生の考え方や関係性も変わったのだろうか。
12歳の女の子に聞いて見たいけど、不審なオバサンは通報されそうだしな。
結局、現在進行形で、何が起きてるかなんて私は知り得ないのだ。
私の価値観なんて、冒頭でイラッとした友人よりよっぽど狭いのだろう。
永遠に井の中の蛙。
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