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母親という孤独について

最近三浦瑠璃さんが好きになってる。なっている、と現在進行形なのは、我が家はテレビをつけないのでご存在を昨年あたりまで知らず、知った最初は「きれいな人だな」としか思っていなかったから。私自身が国際政治のゼミの出身で、周りには国連難民弁務官の同期やら、外交官の先輩やら、ケネディスクールで教鞭をとる教授、など国際政治の神髄に迫る職業に就く方々に囲まれていたので、「国際政治学者」と名乗っていらっしゃるのが最初腑に落ちなかったのだ。「本当の国際政治学者はワイドショーでコメントなどしない」とこれまた勝手な自分が作り上げた観念で。瑠璃さん、本当にごめんなさい。

それが、よく行く本屋で何とはなしに彼女の本を数冊手に取り、読み進めるうちに、彼女の世界に共感と切なく胸をつかまれた。彼女の抑制のきいた文章、知識に裏打ちされた説明、常にフラットな物事の見方。痛みを知ってることが伝わってくる。本当は全ての人を信じて信頼して生きていきたいのだけれども、でも、万が一裏切られたときにその人を嫌いにもならないように距離をあえてとっているような、本当は震えている自分を守っているような、そんな生身の心情を感じられた。孤独に悩み、でも孤独を愛し、うまく付き合ってきたからこそ書ける文章。

国際政治学の視点を持ち合わせたまま、生活の事象を斬っていく。生活に落とし込んでいく。「国際政治を学んだ」からといって、何も直接その分野にドップリつかるだけが、正しいキャリアの構築でもないし、勉強をしてきた人の理想的な在り方でもない。新しい女性学者の在り方で、そして、その「生活に根付いた分かりやすい」説明(彼女には別にそんな意図はないかもだけど)とご活躍がとても嬉しい。自分も励まされている。今はすっかり応援している。瑠璃ちゃんがんばって、と。急に勝手に「ちゃん」付けだ。
そんな彼女がよく取り上げている、または、どんな章を読んでいても行間から感じられる「孤独」について今日は書きたいと思います。

彼女に関わらず、人間、孤独の存在は隣りあわせだ。
私が母親という立場なので、例として「母親の孤独」について書かせていただくが、これは立場が独身の方でも「孤独の質」は同じかもしれない。

孤独には色んな熱量があって、近所の人とちょっと言葉を交わすだけでなくなるような孤独もあれば、分かりあえる友とじっくりと話したらやっと励まされるような孤独もあるし、愛される人にそっと手を握られるだけで癒される孤独もある。孤独が蒸発していく沸点が比較的低く、そこまで深刻ではないものならよい。しかし、「母になる、母である」という覚悟や自覚自体が孤独から発するものであるがゆえに、母親という特性が持つ孤独の温度のスタートは他のそれよりマイナスで、ちょっとやそっとじゃ心地よいぬるい温度にさえならない気がする。

それは母親・家族・環境のそれぞれがもつ、星の数ほどあるその属性が更に複雑にかけ合わさって、孤独の母集団を無数につくるから。誰一人として、「ビンゴ!」と言える、心から分かり合える同質のものがないからだろう。「母親」という分人が一つ増えただけで、属性の広がり方が無限になるのだ。

例えば、「家族」という人間に物理的に囲まれている分、「孤独なんて感じないのではないか」と思われることが多い。いやいや、でも、もし夫とすれ違いばかりだったら?(一例です)。子供が反抗期で口をきいてくれなかったら?(こちらも一例です)。独身の時ように、新たなよい人が現れるかも、ととりあえず自分を励ますような希望も単純には持てないし、周りにも「あんないい旦那さん」と言われることもあるだろう。子供の反抗は家族にしかみえないこともあり、自分の愛する子供を悪く言いたくもない。周りからの理解と共感がないだけで、全てから疎外されたような深い悲しみを伴う。

既に有名ではあるが、アスペルガー症候群の伴侶をもつ方が、その苦労を周りには理解されない苦しみから心身の不調を訴えるようになるカサンドラ症候群という言葉がある。孤独の苦しみが、皆人に平等だとしたら、「家族」や「夫婦」という閉塞感がある世界は、よりその濃度を濃くするのであろう。

子供の進路や親のことで悩んでも、話す相手にどこまで共感を得られるか分からないし、ママ友同士の悩みだって胸襟を開いて安心して話せるまでは時間がかかる。昔の友人と話すでも、お互いの現状に遠慮があって言えないこともある。もし、話すこと自体が、繋がって近くなりたい相手との距離を更に広めることになったら?。そう思うと、怖くなり口をつぐむ。そして、更に孤独を深める。

でも、人間には「忘却」というありがたい才能が身体に宿っていて、「忘れてしまおう」と心を決めると、意外に本当に忘れてしまう。ごまかしてるともいえるが、生活を回すには必要な技術で、落ち込んで悩んでばかりもいられず、笑顔をつくっているうちに、孤独は宙に浮いて、そのまま取るに足らないこととして昇華することもある。

忘れた頃に、深いところにまで落ちてしまい掬い上げられなくなった孤独に気づくこともあるけれども、その頃には多少鈍感になった心は、「結局は人間は一人なのだ」という当たり前の結論を持ち出すことによって自分を励ます。でも、それだからこそ、日常で見知らぬ人と思いがけずに交わす一言の重みや、昔からの友人の温かみや、新たに知り合う人が示してくれるちょっとした理解など、それぞれが奇跡のようなありがたさとして身に染みるのである。

そして、多分同じように孤独を感じ、祈るような気持ちで接しあう人同士が、結局は深いご縁を結んでいくのだろう。そうあってほしいし、希望を捨てずに自分は良かれと思うことを、人には常に同志のような気持ちで接しよう、そして自分のやるべきことをやろう、と日々気持ちを新たに生活している。私の孤独への対処は、ただそれだけである。

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