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愛したことを思い出す

#人生を変えた一冊

#サヨナライツカ

#辻仁成


サヨナライツカ

いつも人はサヨナラを用意して生きなければならない

孤独はもっとも裏切ることのない友人の一人だと思うほうがよい

愛に怯える前に、傘を買っておく必要がある

どんなに愛されても幸福を信じてはならない

どんなに愛しても決して愛しすぎてはならない

愛なんか季節のようなもの

ただ巡って人生を彩り飽きさせないだけのもの

愛なんて口にした瞬間、消えてしまう氷のカケラ

サヨナライツカ

永遠の幸福なんてないように

永遠の不幸もない

いつかサヨナラがやってきて、いつかコンニチワがやってくる

人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと

愛したことを思い出すヒトにわかれる

私はきっと愛したことを思い出す


高校生のとき、はじめてこの本を読んだ。

その通りだと思った。

孤独は裏切らない。

愛なんてあってないようなもの。

サマーセット・モームスイートの中でしか、許されない自由だから。

だけど、私も愛を知りたかった。

肌のうちがわ、骨の隅々まで染みるほど愛されたかった。

時間を忘れて、何もかも捧げて無我夢中で誰かを愛してみたかった。

ヒトが怖くて、嫌いで、だけど愛されたくて、恋に溺れてみたかった。

そして、私はどちらだろうと思った。

本気でヒトを愛して愛されたとき、私はどちらなのだろう。

愛されたことを思い出すのか。

愛したことを思い出すのか。

他人の肌と触れたとき、身体があんなに熱を帯びるなどまだ知らなかったその頃。

私は死ぬとき、どちらを思い出すのか。

あるいは、どちらも味わうことなく死んでいくのか。

どれがいちばん幸福で、どれがいちばん不幸なことか。

それが、12年前に私が考えていたこと。


それから、今日までの12年あまり。

誰かと近づくたび、私の頭にはあの詩が浮かんだ。

私はこのヒトを愛しているのか。

このヒトは私を愛しているのだろうか。

幸福を信じたくなるほどに?

愛しすぎてしまうほどに?

人肌が恋しくなる程度には恋愛もできたけれど、果たして死ぬとき思い出すような愛に育ったかどうか、私にはわからない。

案外、初恋のようにいつまでも記憶の中で初々しく瑞々しく綺麗なままの思い出のほうが、よほど色褪せずに晩年まで心に残っているかもしれない。

さる休日、ふらっと立ち寄った本屋の文庫本コーナーに、一際目を引く真っ赤な表紙のそれが並んでいた。


サヨナライツカ


高校生のころに一度読んで、それきり読み返す勇気も出ないくせに忘れられなかった、たったひとつの物語。

三十路を目前にして、あらゆる嗜好の変化を楽しんでいる今の私は、自分の中にある種の変化を求めてそれを手に取り、パラパラとページを捲った。

会いたかった。

会いたかった。

何度もお互いにそう言い合って、25年ぶりの再会のときを噛みしめるふたりのシーンが目に入った。

25年の歳月を経ても、まぶたを閉じれば鮮明に浮かんでくるほどの愛を抱えていたふたり。

正直、あの詩以外の細かい内容はほとんど覚えていなくて、その世界に触れるのは初めてでもないのにとても新鮮な筆致に思えた。

そして、三十路までカウントダウンを切った今の私はこう思った。

もしもこの先、私を愛するヒトと出会って、私も奇跡的にそのヒトを愛したなら。

愛し合ってふたりの愛を育てることができたなら。

私はきっと、愛したことを思い出すだろう。

そのヒトもきっと、私を愛したことを思い出すだろうから。

買った傘の中に、ふたりで肩を寄せれば良いのだから。


12年の間に、私はゆるやかに変化していたみたいだ。

少なくとも、その本のわずか数ページを捲っただけで、自分の望む愛のカタチを自覚するほどには。

そして、変わらなかった事実もある。

この本と出会った頃の私は、愛など毛頭信じていなかった。

それが、この本を読み終わった頃には世界が180度ひっくり返っていて、恋愛が本物の愛へ育つこともあるのだと信じることができた。

私の人生に、『男女の愛は存在する』と希望を持たせてくれた。

この詩は私にとって、得難い言葉。

この世にふたりといない、得難い人と出会ったとき、どんな恋愛を体験するとしてもきっと、この詩を思い出すだろう。


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