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5年前 <7>

目が覚めたのか、覚まされたのかは分からない。けれどどうやら私は生きているようだ。眠っている間におかしなことを口走ったりはしてないだろうかとどうでもいいことを考えてしまう。
「今、何時ですか」
「10時半ちょっと回ったところです」
そういえば手術の前に音楽はかけてもらえなかったなぁと半ばボーっとしながら思った。

ベッドごとなのか担架で運ばれてるのか?天井を見つめたまま廊下に出て、エレベーターに乗せられ、病室に着いて、気が付いたら元いたベッドに横になっていた。
「お腹空きました……それにトイレに行きたいです」
あれ、想像していたよりずっと元気みたいだ。腕には点滴の針が刺さっていて、血が少し滲んでいる。
尿道カテーテルを外す許可が出て、トイレまで少しふらつくけれど歩くことが出来た。うん、ちゃんと出る。やっぱり私は生きているようだ。
洗面所で顔を見たーーすごいことになっている。パッドを挟んだバンテージで巻かれ、額から頭にかけてネット。ストッキングを被った芸人みたいだ。鼻と口の間、人中部分にはテープが貼ってあって血まみれで、鼻の奥は焦げたような匂いがする。案の定顔はパンパンに腫れているが思っていたほどではない。

術後が地獄だと経験者のブログに書いてあったけれど、それほどでもない!?苦しさ辛さってものがあまり感じられない。バンテージが少しきつくて鬱陶しかったけれど。

待ちに待った食事。重湯(と、塩)、具無しの味噌汁、ヨーグルトドリンク、お茶。それに高栄養のエンシュアというドリンク。これらを入院初日に売店で買っておいた油を注す道具、ドレッシングの容器のようなものともいうーーに漏斗を使って移し替え、わずかに開く口の隙間から流し込む。
あ、肝心の口内はどうなってる?食事をする前に鏡を取り出しておそるおそる見たけれど、なんせ上下の歯がゴムで固定されているのでよく分からない。
口角の辺りから容器を差し込んで舌の上目がけて重湯を入れた容器を握りつぶした。ああ、味気ない、食べた気が全くしない。こんな食事がこれから3週間、退院後もしばらく続くのだと思うと気が滅入る。ロクに食事が摂れないせいで10kgくらい痩せたとブログで書いている人が何人もいたけど、私も痩せるのかなぁ。大好物のピートロや揚げ餅なんてもう1年以上食べてない。矯正装置が外れたり壊れたりしちゃうから。あとどれくらいかかるだろうかーー無事に矯正装置を外せるように、好きなものを美味しく食べれるように治療を頑張ろう。

思っていた以上に身体、首から下は元気過ぎる。病室で安静にしてこもっているのが辛いくらいに。
だから売店まで一人、カラカラと点滴のやつ(何て名前なのかな?)を転がしながら行った。普段なら食べないけれど美味しそうなものが並んでいる。ああ、食べたい。けれど食べられないものばかり。好きなものを好きに食べられるのは贅沢なことなのかも知れないなぁ。そうだった、私は生まれてから家を出るまでの20数年間、好きなものを好きなときに食べることが出来なかったんだったっけ。一人暮らしをしてようやく好きなものだけを好きな時間に食べれる幸せを感じることが出来たんだった。仕事帰りにコンビニで買ったハムとチーズを挟んだベーグルを寒空の下歩きながら食べたよなぁ…….たまらなく美味しかったなぁ。今は好きなものを食べる自由はあってもそれは無理だ。出来るだけ高カロリーのものを食べよう、否、摂取しようとばかりにアイスクリームを買った。いつもなら高いなと躊躇っているベン&ジェリーズを。

病室に戻るエレベーターで、見舞いの人らしき人にぎょっとされた。化け物か何かに見えるのだろう。ああ、被害妄想。

ベッドに寝そべりながらプラスチックの小さいスプーンでアイスを口に運ぶ……けれど口が思うように開かない。少し溶けるのを待ってから啜った。ん?なんだか甘みを感じない。舌が麻痺しているのかも?手術で神経近くを切開するから顔や口内に後遺症が一生残る可能性もあるんだよなぁ。味や匂いや感触を感じられない世界なんて目が見えないのと同然じゃないだろうか?
バンテージが巻かれた顔に触れてみたけど、手の冷たさが感じられない。痺れているような、そうでないような不思議な感覚。

夜になって熱が出て、朦朧としてきて、不安に襲われた。
「今日は渡部先生、来ないんですか?このバンテージ外れるのいつですか?」
「あ~、渡部先生は今日は外来終わって……もう帰ったかも知れませんね。明日は来ると思いますよ」

心細い、心細い。今夜は眠れるだろうか?味気ない夕食を摂りながら涙が出てきた。向かいの患者さんはカーテンの向こうから漏れ聞こえてくる話によるとストーマをつけるのを躊躇っているようだ。
「毎日来てもらって悪いわねぇ」
「なぁに、近くだから来てるだけだよ。姉さんはゆっくり休んでるだけでいいんだからな。必要なものがあれば明日買って持ってくるよ」
ああ、ああ!私にはこんな優しい家族などいない。いっそ、手術が失敗して意識のないまま永遠の眠りにつけばよかったのに。いつぞやにベルリンで高熱を出してホテルで魘されていたことを思い出す。ああ、遠い遠い記憶。