支配からの卒業

中学の頃の校内行事はどれも最悪であった。今思い返すと、よくもまああんな最中にいたなと怖くなる。

中学生は親族と先生くらいしか大人を知らない。大人=外の世界であり、妄信的に信じるしかない。
そして自分の中学の先生陣は、島田紳助よろしく、感動ポルノ的価値観が大好物であった。
みんなでなにか一つのものを作ろう。絆、団結!
ことあるごとに学年集会を行い、些細な問題でも「みんなで考えよう」みたいなノリにさせてくる。特に学年主任の山本は厳しく、校内にガムが落ちていたくらいのことでも、激しく怒鳴り散らかし、生徒を度々恐怖の底へ叩き落としていた。半ばマインドコントロールだ。

山本の担当教科は数学で、冬の時期の授業中にストーブの灯油が切れ、自分が(たぶん出席番号の日付だったのか)指名され、下の階の倉庫のようなところから灯油を持って来いと言われたことがある。重たい灯油を運びなれない手つきでストーブに入れたが(その間も授業は続く)、灯油が少し余ったことに気がついた。灯油が余りましたと山本に言うと、「ついでに隣の教室のにも入れてこい」とのこと、オレを授業に参加させてくれないのねと思いながら隣の教室に行くとそこの先生は「灯油は各教室ごとに決まった量があるから入れてはいけない」と言われた。非常にくだらない板挟みにあった自分はまた倉庫に中途半端な灯油を戻して遥々教室まで帰ってきたのだが、どこかでノズルが取れていたのか、体操服が灯油まみれになっており、独特の臭いが身体中を包んでいた。山本はそれに気づくと自分を激しく叱りつけ、なんかそんなこともできないのか的な、もしくはみんなが迷惑だろとか、なんか言っていた。おれは理不尽に対する怒りと恥ずかしさで自分の体に火をつけてしまおうかと思ったが、なんかもうどうでもよくなってしまった。こいつはそういうやつだ。ろくな死に方しないぞ。

そんな山本率いる先生にチューニングされた成績の良い生徒はみな絆やら団結をスローガンに掲げようと目をキラキラさせて言い始める。
チューニングされた生徒は賛成し、そもそも興味のない生徒はそれでいいや、となるため結局絆や団結が100%正しいことのような雰囲気になっていく。
そして、中学生はまだかなり子供である。絆や団結を大事にしすぎるあまり、参加しない人間=悪だとし、攻撃しだす連中もあらわれる。自分が正義だと信じているし、参加しない側も落ち目は感じているだろうからなおさら酷いものになる。自分も球技大会の練習をサボり、図書館にいたところそれがバレて、ぶたれたりケンカになったり面倒なことになった。これは中学生は子供だし仕方ないよねで済まされる話ではない。なぜあの時先生たちは、積極的に参加しない人たちとどのように接するべきかを教えてくれなかったのだろう?本当の絆や団結がそういうことじゃないことは、わかるはずなのに
そのほかにも、「雨ニモ負ケズ」の全文が廊下に張り出され、朗読をしたり
震災の被災地のボランティアを募るために津波の動画を見せたり
なんかズレてる、おかしいと、ずっと違和感があった。しかし当時の自分も、そこまで俯瞰した視点はなかったし、先生を通してでしか社会や大人を知らなかった。今は、あの頃がとても悔しい。
別にこんなふうに思わなくてもいいし、目覚めろとも思わない。自分も最悪のさなかで楽しいと思うこともあったし、友達と何かをすることそのものは好きだった。だけどそのほぼどれもがハラスメントまがいの指導やコントロールの下で行われていて、鬱屈した感情や気持ち悪いと感じたことは「だんだんとみんなの気持ちが一つになり、成功しました」みたいな、映画版ジャイアンのような結果論に丸め込まれていた。
きっと大半の人も、楽しかったとか、みんなで一つのことができて嬉しかったとか、そういった思い出なのだろう。
そして、その価値観が現代では尊いとされているものであり、本当の意味で支配からの卒業なんてものはないのだろう。

おわりで〜す

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