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諦める事は諦めない事より難しい

「諦めないこと」が素晴らしいように言われることが多いけど、諦める方が余程難しいと思うんですよ。

よく「オレ、簡単に諦めちゃうんだよね」なんていう人がいるけど、それは「諦めてる」んじゃなくて、単に「努力するのを止めた」だけだったりする。努力するのは止めたけど、心のどこかでは「たなぼたで手に入らないかなぁ」なんて思ってる。それって、諦めてない。

「諦める」っていうのはそんな生半可なことじゃなくてね。
望むものは自分に力ではもう手に入れられないことを認めること。

自分の努力ではできないことを正面から受け止める必要がある。
それはとてもキツい。
自分を客観的に見つめ、分相応を知る。
それが諦めるということの本質。

努力するのをやめただけ、というのとは全く違う。

自分ができることをやってもできなかったことは、仕方ない。
自分でできることをすべてやったかどうかを点検し、これからできることがないかについても検討して、それでも無理ならば、それが自分の器だと受け入れる。そしてゴールにたどり着けないことが明らかであっても近づこうとする努力をやめない。これは本当に難しいけど、これが諦めることの本質だと思う。

ありのままの自分を受け入れるのは難しいこともあるけど、それができれば、きっと救われる。僕もそうして救われました。
自分は精いっぱいやった。自分は自分だから。これでいいんだし、こうなるようになってるんだ、って。

下に引用したのは、以前、「音羽屋」さんと言う方から、僕が以前書いていたブログに頂いたコメントです。
以下、音羽屋さんのコメントをそのまま引用 (引用許可頂いています)。


***引用ここから***

音羽屋的。には実は枕詞というかサブテーマがありましてですね、ご存じかもしれませんが、「諦聴諦聴」というのがそれです。
「諦聴諦聴音羽屋的。」
(yahooで諦聴諦聴を検索するとその記事がトップに出てくるw)

これって、釈迦の言葉で、仏説観無量寿経というお経の一説なんです。和訳すると、「あきらかにきき、あきらかにきけ」というふうになります。

おもしろいなぁと思うのが、「あきらか」と読む「諦」という字は、ここでもあるとおり「あきらめる」とも読むんですよね。

つまり、自分があきらかになる=自分の器がわかる=ありのままの自分を受け入れる、という見方が出来ると思うんですが、すなわち、あきらめることとあきらかになることはイコールなのではないかと。

僕はそれをこのお経の一説に出会って考えるきっかけをもらいましたが、hirobotさんがそういう背景なしに「諦」という概念を同じように受け止めておられたことに正直驚きと感動があります。

本当に諦める。自分ではどうしようもないことを悟る。そこで初めて自分というものがあきらかになる。

これって、真に自分らしく生きるためのスタートラインなのではないかと思うのです。そして、自分含め、いろんなことを諦めきれずにもがきながら、結局そのスタートラインに立つこともかなわぬままに死んでいくのが人間の悲しさなのかなと。。。

投稿者: 音羽屋

 
***引用ここまで***
 
以前にも音羽屋さんには、僕が気付いたことを日記にしたときに、「それは南無阿弥陀仏の世界観ですね」と教えていただいた。なんとなく形を取りつつあった僕の考えが、明確な姿をして目の前に現れた瞬間だった。
今回のコメントでも、僕の考えていたことは、何千年も前に既に釈迦が考えていたのだ、と気付かせていただいた。すとん、と腑に落ちる、とは、このことだ、と。

「諦めること」というのは、「努力をやめること」とはまったく違って、「自分にとって都合の悪いことにも目を開き、心を開いて、自らの身の丈を明らかに見て、自らの限界を知ること」で、本当はとても厳しい。

身の丈を知る、それは傲慢になっても、卑屈になっても、上手くいかない。
自分にできることを知り、同時に、自分にできないことを知る。
それは、限界まで行かなければ分からない。

諦める前に自分は本当に限界まで攻めているか?
逆に、見たくないものを見ないために、ただ諦めることをしていないだけではないか?

常に自分に問いかけることができて、初めて身の丈を知り、「諦める」ことができるわけで。
それは、まさに「明らかに見る」ことなんだと思う。


  ・・・

僕はもともと他人から好かれるタイプではない。

いろいろと努力はしてみたけど、まぁ、無駄だったね。どれも。
基本的な性格に問題があるのだろうけど、それを無理に繕っても結局上手く行かない上に、ストレスが溜まる。いいこと無い。

“他人から好かれる” ことは、努力してどうこうなるものではなくて、その人の行動や持って生まれたものの総体として、結果的に他人から好かれるわけだから。

もちろん、かといって、自分勝手に生きるんだ、っていうわけではなくて、“他人から好かれることを目的として行動しない” ということです。

自分は他人から好かれていないな、と感じても、そのことについて自分を責めすぎないようにしよう、ということ。自分に悪意があってやったなら問題だけど、善意で行動して、そのときはそれが精一杯のことで、結果的に嫌われたのだったら、それはそれで仕方ないことだから。

とにかくそのことで自分を責めすぎてはいけないな、と。

  ・・・

「やればできる」とか「願いはかなう」とか間違ったことを言うから、悩む人が増えるんだと思う。

たとえば、他人となじめないこと。
たとえば、自分が理想の自分とは違うこと。
たとえば、他人からの評価が低いこと。

そういうことで自分を責めないこと。

「どうして自分はこんなことができないんだ」なんて自分を責める必要なんてない。人それぞれには器があり、努力してもできないことはできないもんね。

自分のできる範囲で、できることをやればいいと思うんですよ。
他人様の評価は、自分ではコントロールできない。
自分ができる以上のことはできないんだから、やれるだけやって、他人様の評価が低くてもそれはどうしようもないし、悩んでも仕方ないこと。

  ・・・

人気者になんてならなくていい。
その他大勢の一人でいい。
自分ができることを、自分のベストでやれていれば、誰にも恥じることはないよね。

ずっと上を向いて生きている必要なんてないし、ずっとうつむいて過ごすこともない。
充分頑張ってるから。今のままでいいんだ。
そう、それでいいんだ。

南無阿弥陀仏 - 阿弥陀仏の思し召し通りに

導きに従って生きれば、無理なくに生きて行けいるようになっている。
つまり、無理なく生きるようにすれば、すなわちそれは導き通りの生き方になっている。
水が沢を流れ下るように、自然とそうなるように出来ている。

僕が、以前、モータースポーツの師匠の一人、田中“極楽堂”稔 氏から教えてもらった言葉、今になって分かった。

 ***

丁度良い

おまえはおまえで丁度良い
顔も体も名前も姓も
おまえにそれは丁度良い

貧も富も親も子も
それはおまえに丁度良い

幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度良い

歩いたおまえの人生は、
悪くなければ、良くもない
おまえにとって丁度良い

地獄に行こうと、極楽に行こうと
行ったところが丁度良い

卑下することもない

上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度良い

仏様と二人連れの人生
丁度良くないはずがない。

南無阿弥陀仏
 
 ***

(文※・写真: セキヒロタカ)
※ 「丁度良い」は除く

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