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神道

この世のあらゆるものに神が宿る。
太古より日本人はそう信じてきた。そしていつの頃からか、その信仰は神道と呼ばれるようになった。では日本人にとって神(カミ)とは何か。それは並外れたもの、霊妙なるものを指す。人々がそこに霊妙なるものを感じ取ればそれは神のあらわれとなる。自然物、自然現象、動物、人、人工物、場所や空間、日本人はこの世のあらゆるものに神を感じ、祈りや祭祀の対象としてきた。ありふれた変哲もない物や場所の中にも、そこに宿る並外れた力を、霊妙なる神のはたらきを感じとる。よって日本には「八百万の神」がいると言われる。「八百(やお)」は数が極めて多いこと、「万(よろず)」はさまざまを意味するので、「八百万の神」とは多種多様な無数の神ということになる。神道とはそんな無数の神と人々との関わりから育まれた自然発生的な宗教と言って良い。そんな神道の特徴としては次の4つを挙げることができると思う。
①この世のあらゆるものに神が宿るという思想
② 産霊 穢と晴れの思想
③ 教祖がいない。特定の教義や経典、戒律がない
④常世と現世という死生観

① この世のあらゆるものに神が宿るという思想
神道において祭祀の対象となる物や場所は御神体と呼ばれる。御神体は御霊代、依代とも呼ぶ。神(御霊)の依る.宿る場所である。自然物及び場所としては山、川、湖沼、森、巨石、巨木、神域、動物としては狐や猿や鹿、人工物としては社、像、絵、鏡、剣、玉などが代表的である。無論それ以外にも髪の毛や男根、キノコやタニシなど驚くほど多種多様である。森羅万象一切に神が宿ると信じる神道においては、万物が御神体になりうる。ただし気をつけねばならないが御神体=神ではない。神は目には見えぬ霊的存在である。この世に宿るには仮の肉体が必要であり、その肉体が御神体である。人はそこに宿る神を祀っているのであってその物自体を祀っているのではない。御神体は神の宿泊所と言い換えてもいいであろう。
神社に行くと、紙垂という白い紙のついた縄で括られた物や場所を見かけると思うが、あれが御神体である。巻かれている縄は注連縄(しめなわ)と言う。 注連縄は御神体を指し示す印であると同時に、聖と俗を隔てる結界でもある。神社の入り口に立つ鳥居や、神社を囲う玉垣も同じ役割である。諏訪大社では社の四隅に立てた柱(御柱)で聖と俗を分かつ。御神体には期間限定のものも数多い。
我々に身近なもので言えば、祭りの神輿や山車がまさにそうである。祭りの始まりと共に神は訪れてそこに宿り、終わると帰って行く。神とは基本的に来訪者であり、お客様である。こういった人と神の関係を、現代において端的に表現しているのは地鎮祭ではないかと思う。地鎮祭とはその土地の神に、土地に手を加え利用することを許可してもらう儀式であり、新築の工事などで見かけることが多い。儀式の内容は至って簡素である。青竹と注連縄で結界を張り、神の依代である榊に酒、米、魚などの供物をし祈りを捧げ許しを乞う。儀式が終わり神が帰れば片付けられ、瞬く間に元の空間に戻る。そこには土地(自然)を勝手にいじれば神の怒りをかうと言う思いがあり、よって神を招き祈りもてなして許しを乞い、いい気分で帰って頂こうという、古代から受け継がれた日本人の心性がある。このインスタントな儀式は神がこの世のあらゆるものに宿ることをよく表している。不真面目な適当さではなく、
まさにこれでなんの問題もないのである。ありふれた日常の中に霊妙なる神のはたらきを垣間見る。それが列島に生きてきた人々の生き方であった。
② 産霊 晴れと穢の思想
産霊という概念がある。神道を語る上で最も重要な概念であるが定義は曖昧である。強いて言えば宇宙万物を生成発展させる霊的な力、または宇宙の根源的な生命力とも言うことができる。この産霊が充実していれば個人や共同体は清らかにつつがなく生きられる。太古から日本人はそう信じてきた。個人、家族、共同体、あらゆる単位での幸福は産霊の働きであった。この産霊が充実した状態、または産霊の充実を受けるに足るコンディションが、晴れ、である。晴れ着、晴れて自由の身、などの晴れという表現ははここからきている。逆に産霊の働きが弱った状態、これが穢、穢れ(ケガレ)である。穢れというと現在では汚れたものを指すが、元々はそういった意味よりも、気枯れ(ケガレ)生命力(産霊)が弱った状態を意味した。死、病気、悪行、犯罪、それらは穢れであり産霊の弱りがなす技と考えられた。よって穢れを去り晴れにすることが求められる。その方法が祓いである。祓いの中で一番よく聞くのは禊であろう。
禊は水を用いた祓いである。問題を起こした人が何らかのペナルティを課されそれが終わった時に禊は済んだ、とよく表現される。政治家などによく使われる言葉と言える。人は穢れを祓い晴れの身となって神を祀る。神は産霊を操る力を持った存在である。神を心を込めてもてなせば産霊は世に満ち、神を怒らせれば産霊は衰え、人々は窮地に追い込まれる。祀り.祭りとは神への祈りであると共に、神を慰めもてなす接待である。全国各地で行われる祭りの流れはこのことををよく表している。祭りの時、人々は身を慎み祓いを行い、晴れの身となって神をお招きする。来訪した神は依代を仮の宿とする。代表的なものは神輿である。神には酒や食べ物が捧げられ、人々は神と共に飲み、食べ、歌い、踊る。神の降りた神輿は人々の間を練り歩いて穢れを祓い、周囲を産霊で満たしていく。そして帰っていく神を礼を尽くしてお送りし、祭りは終わる。かくて産霊は満たされ、個人や共同体は幸福に生きることができる。日本には祭りが無数存在するが、この核となる思想はほぼ一緒である。それは古代より連綿と受け継がれた、人々の世界観なのである。
③ 教祖がいない。特定の教えや戒律、経典がない
例えば一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)には明確な教えと戒律、特定の経典が存在する。キリスト教には隣人愛、汝の敵を愛せ、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せなど、具体的な教えが多数存在する。人としていかにあるべきか、何をなすべきか、何をなさざるべきかという具体的な規範である。離婚や避妊は長きに渡り禁止されてきた歴史があり、カトリックでは今でも一般的には否定的である。アメリカ大統領選挙でも人工中絶が必ず大きな争点になるのは周知の通りである。イスラム教ではそれがさらに顕著となる。イスラムの聖典である『コーラン』は宗教上の教えはもちろん、服装や飲食を含む生活規範、結婚や離婚、相続に関する規定、犯罪に対する処罰規定、商売上の規定、政治・経済、法律、戦争に関する規則まで、生活のあらゆる分野にわたって教えと戒律が事細かに記されている。偶像崇拝、飲酒の禁止、豚肉を食べてはいけない、女性は人前で肌を見せてはいけないなどが一般的に知られているが、それらは全体のごく一部に過ぎない。だが神道にはそういったものがほぼない。事実神道の具体的な教えと言われても、多くの人はピンとこないであろう。だがそれでほとんど問題ないのが神道なのである。戒律も同様である。
無論神道にも戒律的なものはあり、物忌み(斎戒)がそれにあたる。物忌み(ものいみ)とは、ある期間中、日常おこなっているある種の行為をひかえ穢れを避けることをいう。肉食や殺生の禁止、禁酒、娯楽の禁止、堆肥の扱いの禁止、病人や死者との接触の禁止などが代表的である。だがそれは神職やその時の神事担当者が期間限定で守るのが一般的であり、キリスト教やイスラム教のような一生涯にわたる厳格な戒律とは異なる。経典にしても、キリスト教は旧約聖書と新約聖書、イスラム教はコーランと言ったように確固とした経典が存在する。およそ両信者でこれらの経典に触れたことがない者などほぼ存在しない。だが神道にはそういった特定の経典はない。強いて言えば、古事記や日本書紀、伊勢神道の神道五部書などがそれにあたるが、神道行事に関わる者でこれらに触れた者はかなり少数であろう。だがそれで差し支えがない。それが神道なのである。 日本で行われているクリスマスやハロウィンは、実際は神道行事だと言った人がいた。(無論キリスト教信者が行うものは異なる)言い得て妙だと思う。外装はキリスト的でも、内実は極めて神道的である。
どんな神でもとりあえずは祀り、共に祝ってしまう。明確な教えや戒律や経典がない故に、曖昧なままあらゆるものを受け入れられる。それが神道の真骨頂であると言える。
④常世と現世という死生観
人は死ぬと皆常世の国に赴く。常世とは深山や地底、海の彼方にある神々の住まう国であり、人は死ねば常世の神々の元に帰り、自身も神(祖霊)となって生者を守る。人々はそう信じてきた。そして人々が今生きているこの世界が現世である。常世は聖なる神々の世界であり、現世は生者の俗界であった。常世にいる神は常世と現世を往来し、人々の暮らしを見守りかつ助ける。死んだ者は遠くの世界に消え去ってしまうのではない。頻繁に現世を訪れて自分達を守ってくれている。自分も死ねば常世に行き、神となって人々を守る。それが太古から続く人々の死生観であった。この神々の来訪者としての性格を、民俗学の巨人折口信夫は『まれびと』と表現した。異界から異形の存在である『まれびと』が訪れ、ありふれた日常に変化を与える。そんな異形の存在こそが神であると言う。神がもたらす変化は良いものとは限らない。天災、疫病、飢饉、戦争、穢れた生活をしもてなしを怠れば、そんな災厄がいつもたらされるか分からなかった。神は恵みを与えてくれる身近な存在であると同時に、災厄をもたらす異形の存在でもある。そんな神が住まう常世は生きている人間に伺うことはできない。だが常世と現世を結ぶ境目は世に無数存在し、人はそこに立つことはできる。そう信じられてきた。人が境目としたのは風景の切り替わる場所、場の様相がそこで変化する地点が多かった。山と川の境目、森と野の境目、海と陸の境目などである。坂や河原、中洲が古くから神域(聖域)とされることが多いのもそこに理由がある。同時に人が聖と俗の境とした場所も常世と現世の境であった。常世は聖の属する所であり、現世は俗の属する所だからである。よって聖と俗を分つ結界を示すもの(注連縄や鳥居、玉垣など)は全て両界の境目と見做しうる。あらゆるものが神体になりうる日本では、あらゆる場所が常世と現世を結ぶ境目となりうる。常世は遥か彼方の世界かもしれないが、そこに繋がる風景は世に無数に存在するのであった。

以上神道の概略を述べてきた。
産霊とそれを操る神々への畏敬の念。
この世のあらゆるものに神は宿り、あらゆるものに宿る故にあらゆるものは祀られうる。あらゆるものは祀られうる故に、あらゆる場所は聖域たりえ、あらゆる所で神と繋がることができる。誤解を恐れずに言えば、それが神道のほとんど全てである。それは列島に住む人々の暮らしから自然に生まれた素朴な信仰であり、体系的な教理も明確な戒律や経典も必要とされなかった。神道は峻別さや厳密さとはおよそ無縁の信仰であった。だがそれは決して底の浅さを意味しない。峻別さや厳密さを欠いた曖昧さ故に、空間と時間を超える普遍性を持ち、あらゆる思想.信仰と共存できる大らかさを持っている。この神道の精神は、共生を必須とする現在の世界においてはなお一層の輝きを放ちうるのではないか。もしそうだとすると日本人はほとんど意識することもなく、世界に誇れる大いなる遺産を継承していたことになる。


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