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やがて星になる


「夜になったら、星をながめておくれよ。
ぼくんちは、とってもちっぽけだから、どこにぼくの星があるのか、きみに見せるわけにはいかないんだ。」

「だけど、そのほうがいいよ。
きみはぼくの星を、星のうちのどれか一つだと思ってながめるからね。」

「すると、きみは、どの星も、ながめるのがすきになるよ。
星がみんな、きみの友だちになるわけさ。」

「ぼくは、あの星のなかの一つに住むんだ。
その一つの星のなかで笑うんだ。」

「だから、きみが夜、空をながめたら、星がみんな笑ってるように見えるだろう。
すると、きみだけが、笑い上戸の星をみるわけさ。」

「そうすると、ぼくは、星のかわりに、笑い上戸のちっちゃい鈴をたくさんきみにあげたようなものだろうね。」

「ほんとうにおもしろいだろうなぁ。
 きみは、五億の鈴をもつだろうし、
 ぼくは、五億の泉をもつことになるからねぇ。」
                           
                          ー星の王子様ー   

 

リンリンリン、と鈴が鳴る。私はずっとこの音が嫌いだった。この鈴の音がすると、母は何時でも家事を中断して祖母の部屋へ向かう。
私は祖母の部屋も嫌いだった。やがて訪れるであろう死の濃い匂いと、それを隠すために山と積まれた白百合の甘すぎる匂いが入り交じった部屋。
鼻に管を通し、自分の体を拭くのが誰か、自分が何を求めているのかも分からないくせに、枯れ木のような指を伸ばして鈴を鳴らす、祖母の姿。段々と人の姿を無くしていく祖母を見る度に、私の胸には誰にも言えない、残酷な苛立ちが募っていった。
いつしか私は祖母の部屋を避け、鈴の音に耳を塞いで暮らすようになった。

今夜もまた、暗闇の中に鈴が鳴った。鈴の音は時を選ばず私と母を責め立てる。
いつものようにベッドの中でやり過ごそうと毛布を被るが、いつまで経っても母の足音が聞こえない。少しして母が珍しく化粧をして出かけた事を思い出す。例え外出先でも「鈴が鳴った」と電話さえすれば、母は一目散に帰ってくるだろう。母はそうやって生きてきた人だから。考えている間にも、鈴は物悲しく鳴り続ける。
私は意を決してベッドから降りた。

ライトを片手に廊下を進む。
切れた廊下の電球を変えることが出来ないまま、長い年月が経っていた。墨を流したような真っ暗闇の中、微かな鈴の音だけが響いている。怖気の立つのを抑えながら祖母の部屋のドアに手をかけ、おそるおそる開いた。部屋の真ん中で、こんもりと盛り上がった小さな布のかたまりが、窓から差す月明かりに照らされて、ぼんやりと暗闇から浮き上がっている。全てが止まった世界で一つだけ、そのかたまりが微かに揺れている。
久しぶりに見た祖母の姿は、もはや人と言うには儚すぎた。部屋に満ちていた濃密な死の匂いは何故か消えて、積まれた白百合は死骸となり、棚の上に静かに横たわっている。私はほんとうに久しぶりに、祖母の枕元に歩み寄る事ができた。

そっと声をかけても祖母は反応せず、依然鈴を鳴らし続け、子犬のように光る目だけを窓の外に投げかけている。
つられて、窓の外を見た。途端に、祖母が鈴を鳴らした理由を理解出来た気がした。

星。
何万光年の彼方で身を焦がす、燃え盛る炎のかたまり。小さな小さなひかり。音のなるような無数のきらめき。
見渡す限り、満天の輝きが空を埋めつくしていた。
リンリンリン。立ち尽くして夜空を見上げる私の耳に、祖母の鈴の音が届く。その音に引き出されるように、遠い記憶が蘇ってくる。

まだ祖母が本当に生きていた頃、小さな私を膝に乗せて「星の王子さま」を読んで聞かせたこと。その時の柔らかな声音。人が死んだらあの星の中のひとつになると、私に言い聞かせたこと。

たしか小さな私は思ったのだ。人間があんなに小さなひかりになれるのだろうかと。暗がりの中で小さなかたまりになった祖母を見る。これは、人がこうやって小さくなることは、やがて星になるための準備だったのか。小さくなって小さくなって、やがてあの小さなひかりになるのか。
いつか星になった祖母ならば、嫌いにならなくて済むかもしれない。化粧をした母と2人で夜空を見上げて、煌めく五億の光の中に、祖母の鈴の音を聞くのかもしれない。

私はすこしだけほっとして、あらためて祖母を見つめた。
祖母の鳴らした鈴の音は、いつまでもいつまでも星の薄明かりの中に響いていた。

                                     



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