見出し画像

笑いについて(お茶代 10月)

 私の母は、「つらい時ほど笑って」とよく言う。他の有名人もよく成功した時に「つらい時でも笑うようにしてきました」と言うことがある。母もそういう有名人も、内側から沸き起こるようなポジティブなパワーがあるように感じられる。もしもつらい時の笑いが頑張って作った偽物だったとしても、それを経てうまくいったときの本物の笑いで帳消しになるだろう。もしくは、笑っていてもうまくいかなかった人のことは、話題にされないだろう。

 有名人のことはさておき、ここからはその母に育てられた私の話である。私は母のその信条がとても苦手だった。面白くもない、むしろつらいときなのにどうして無理して笑わなければならないのか。それは母が私のしかめっ面を不快だから見たくないというだけなのかもしれない。そんな自分勝手なことがあってたまるか!と、ずいぶんしかめっ面の多い幼少期を過ごした記憶がある。アメリカでは親が子どもに鏡を見せて笑顔の練習をさせるんだって!と言われ、ムスッとしていると鏡見といで!と洗面所に行かされたこともある。 
 別にその信条自体は悪いことではないのに、自分で考えて決定させることを経ずに一方的に教えるという方法をとられたせいで、私はすっかりひねくれてしまった。とはいえ教えられたので人並みに笑顔を作れる人間に成長した。歯を見せて目を細めると、私のコンプレックスである目つきの悪さと鼻の形の悪さがましに見えることにも気づき、集合写真のときはだいたい大きめに笑うようにしている。

 こういうふうに書いては自分の考えを押し付ける母を糾弾しているような感じになってしまう。フォローしなければなるまい。実際に笑顔でいることが役に立ったことはある。数年前公務員試験を受けようと死にそうになりながら勉強していたときのこと(たかが公務員試験と思われるかもしれないが、吉永は長時間机の前に座って興味の湧かない内容を勉強するのが死ぬほど苦手)で、勉強がつらくなったり面接指導で納得いかない注意を受けたりしたときは無理やり笑うようにしていた。ニッコリというよりニヤリ(引きつり)という感じで見られたものではないが、それで少し気持ちを取り戻して勉強し続けることができていたような気がする。

 また、最近ではフキハラ(不機嫌ハラスメント)という言葉も出てき始め、八つ当たりのように説明もなく不機嫌でい続けるのは相手に感じなくてもいい不安を与えてしまうのでよろしくない。理由を説明するか、自分で不機嫌のもとを発散するか、心と顔の表情を乖離させる秘術(それは大抵の場合我慢と呼ばれる)で乗り切るかした方が相手のことを思いやっているといえる。

 しかしその「つらい時こそ笑顔で」方式で無理をしすぎたせいで心を少し壊してしまった。笑いの力を過信しすぎたのか、秘術(我慢)を使いすぎたのだ。どんなに頑張っても笑えなくなり、自分を欠陥品だと思い込んだ。笑えないのは自分がダメだからだと思い、一日のどこかで必ず泣き叫ぶというあまり正常とは言えない毎日が続いた。

(「笑い」がテーマなのに、なんて笑えない文章なんでしょうね!)

 上にも書いたが、問題は笑うかどうかを自分で決められなかったからである。心の状態がモロに出て、常に管理し続けるのが難しい表情を、プライベートな時間も一緒に過ごす家族に口出しされるというのは、これ以上ない疲労を伴う。私は大学に上がるまで自分の部屋を持てなかったので、その疲労がさらに蓄積されていたのだろう。

 自分がどういう表情を作って、人からどう思われるかというところまで、全て自分で決めたい。そうでないと、犯罪者にナイフを向けられている瞬間も、恐怖におびえながら愛想笑いを作る人間になってしまう。
 社会の中で生きる上で、完全に自分に正直でいるのは難しいとしても、せめてお手洗いの中、せめて自分のベッドの中では、自分の心に正直な表情でいよう。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?