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すべての人の僕(しもべ)になりなさい


あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
新約聖書・マルコによる福音書 10章43b~44節)


これはイエス・キリストの言葉。イエスが弟子たちに言った言葉で、弟子たちが「偉くなりたい」「特別な扱いをしてほしい」と言ったことに対して、返した言葉らしい。先週までキリスト教に関する本を読んでいまして、橋爪大三郎先生という社会学の大先生の名著として知られている、これ。



なんでいきなりキリスト教を学び出したのかというと、、うーん、いま思い返してもちゃんとした理由が思い出せないのだけれど、きっと、知らない世界に興味を持ったのかもしれない。年末ごろには仏教に関する本を読むいくつか読んでいたので、『じゃあキリスト教はどうだろう?』と手を伸ばしてみたのかも。

私たちが現在体験している社会というものは、西洋からの文化に大きく影響を受けている。それは明治維新以降、西洋の列強的仕草に危機感を感じて、『日本も早く近代化しなければ、お隣の中国のようにやりたい放題にされるかもヤバい...』という、そんな経緯があったように思える。そして、第二次世界大戦後、高度成長期を経てさらにそれが進んだということなんじゃないでしょうかね、たぶん。

そんなこんなで、西洋的な文化を私たちは取り入れてきたのだ。けれど、実はその西洋的な文化の土台にはキリスト教があったのだ。私たちは...いや、少なくとも私自身はそんなことも露知らず、うっかり西洋文化を生きてしまっていた。じゃあ『そのキリスト教ってどんなもの?』という根本的な社会の成り立ちを再認識しようというのが、この本の主なテーマの一つとなっているのですね。


さて、この本を読んでいろいろと感じたことがあったのだけれど、とくに印象に残ったのが、冒頭のイエスの言葉。恥ずかしながら、キリスト教のことはほとんど無知な状態で、『どうやらイエスという人の思想を中心とした教えらしい』『どうやら神様が世界を創ったらしい』という、子供用プールくらいの浅い理解しか持ち合わせていなかった。極浅だ。

イエスの言葉を知って感じたのは、イエスはよほどの人格者だったのだなって。こんなことを言うと敬虔なクリスチャンな方には怒られてしまうのかもしれないけれど(イエスは神の子だという解釈もあるので、人格者という発言は冒涜になりかねない...かも)、仏教でいうゴーダマ・ブッダ、儒教でいう孔子、正確には孔子は儒教の祖ではないらしいけど、この三者に共通するのは、人智を超えた理性と自制心を持っていたということ。

そして、どちらの方も、贅沢を禁じて、己の自我というものをコントロールして、善きことを行うという態度に徹底をして生涯をまっとうしたということ。イエスは冤罪を被せられ処刑となってしまうけれど、最後まで相手を罵ることはしなかった。イエスの有名な言葉にこんな言葉がある。


悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
(マタイによる福音書 5章39節)


聖書の解釈はとても難しいようで、イエスが本当はなにを言いたかったのかは、想像するしかないけれど、理不尽な処刑を受け入れたイエスがその生き方をして、なにを伝えたかったか、なんとなくわかるような気がする。


僕(しもべ)になるということは、奴隷のような生き方をしろということ。これを聞いて『はい!わかりました!』と納得する人はなかなかいないでしょう、きっと。でもね、そのくらいしないと私たち人間は年齢を重ねるごとにどんどん傲慢になってしまうんじゃないかって、そんなことを思うのです。

差別をなくしていこうという考えが強い現代で、このイエスの言葉は少し浮いてしまうようにも思えるけれど、世の中を見ていると傲慢な人間は過ちを犯して、堕落していくと感じるし、尊敬できる人ほど謙虚で素直であると感じることも多い。そんな、なぜか人間が生まれながら備えてきてしまった『傲慢さ』というものをキャンセルするためのライフハックとして、イエスの言葉は現代にも取り入れてみる価値はあるんじゃないかなって、思ったりしたのでした。ライフハックなんてライトな言葉を使っちゃうと、また怒られてしまいそうだけれども...。


そういえば、先日『本来無一物』という禅の言葉を知ったのだけれど、ちょっと関連するようなことかも。それはまたの機会に。



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