さっとん|コンテンポラリーダンス3年生

長野県小諸市在住。歌ったり、踊ったり。心と表現についての関心があります。趣味は相撲観戦…

さっとん|コンテンポラリーダンス3年生

長野県小諸市在住。歌ったり、踊ったり。心と表現についての関心があります。趣味は相撲観戦と読書。

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『ほんとう』であり続けるために

夏のイベント目白押しDAYが過ぎ去り、ひと段落しました。8月になったばかりで、まだまだ夏真っ盛りな気分な人も多いかもしれないけれど、長野の夏は短い。お盆が過ぎれば、あっという間に秋の空気に包まれていくのです。 11月まで月一で予定しているBBGセッション(コンテンポラリーダンスを学ぶ集まり)も後半戦を迎えました。回数を重ねるごとにより濃い時間へと変化していくのがわかります。やはり学ぶというのはこうでないと。より深いところに行くためには、相応な時間と環境が必要なのですね。

    • 共感の功罪

      日常の中でもよく使う『共感』という言葉について、ハッとする記述と出会ったので、こちらに残しておきます。 まず、とある書籍から、二つの文章を引用します。 一つ目は、中島岳志・著『思いがけず利他』から。 もう一つは、伊藤亜沙・編著『「利他」とは何か』から。 この二つの書籍は、どちらも『利他』という事柄について書かれた本です。 利他とは一般的に『自身の利益を顧みず、他者の利益となるように図ること』と理解されます。 わかりやすく言えば、困っている人に手を差し伸べること。

      • 身体表現とうつわ的な感覚

        デザイナー原研哉さんの著書『白』を読んでいるのですが、その途中で神社についての記述がありました。 少し長いけれど、もう少し引用します。 つまるところ、神社は『空っぽ』だからこそ、神が宿るということ。 これはなかなか興味深い。 日本人の感覚の中には八百万の神があらゆるところに存在しているのだから、空間(あるいは間)をつくってしまえば、それを神は見逃さないだろうということです。 わたしは身体表現を学んでいますが、僭越ながら同じような感覚があります。 それは、表現をする

        • わたしの哲学と概念、そしてモジュール

          手元にいくつか本が溜まっています。それがとても良い感じです。 確か2年くらい前。 まったく本を読まない人間だったわたしが、『なにやら本にはとても面白そうなことが書いてあるらしい』と感じ出して、少しずつ読みはじめました。 本を読むには『筋力』が必要です。 これは比喩的な意味での『筋力』(つまり文章を読むことに慣れるという意味との筋力)と、リアルな筋力(体力的な意味での筋力)のふたつの意味があります。 本の面白さを感じるためには、筋トレが必要だったのです。 だからコツ

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        • 占星術
          8本
        • たくさん読まれた
          2本
        • 暮らしとcafe - 日日屋(にちにちや)
          3本

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          価値や意味などというレールから飛び降りて、私から生まれる運動『そのもの自体』を楽しむこと

          千葉雅也さんの『センスの哲学』を読みました。 千葉さんはもともと芸術寄りの人間だということで、論理的にも感覚的にも両側面から思考されていて、とてと共感できるものだった。 哲学者の言語化能力ってやっぱりすごい。 『センスとはリズムだ』 このような切り口で本書は、センスという実態の把握しにくい感覚の輪郭を浮き彫りにしていきます。 センスは『上手い⇄下手』という世界のレールから早々に降りてしまうことであり、自分自身から生み出されるオリジナルな運動を楽しむ行為だ、ということ

          価値や意味などというレールから飛び降りて、私から生まれる運動『そのもの自体』を楽しむこと

          それでも曲を作り続けたい

          一応わたしは、シンガーソングライターだったりする。 『一応』とつけているのは、一年で一度歌う機会があればいい方なので、こうやって控えめな自己紹介になっている。 久しぶりに新曲が生まれそうな気配がある。 なんでこんなに他人事なのかというと、わたしはわたしで意図的な歌を作れないから。 歌というものは、曲と歌詞で成り立つ。 正確には曲というのは主旋律(メロディ)と和音進行(コード進行)、そして編曲で成り立つ。 どんな曲をつくろうかと考えて練り上げられるほど技術がないので

          なんとも言えない感覚と言葉

          タイトルを決めて、その通りに書くということが苦手だったりする。 だからちょっと、思い立って、頭の中を順番に羅列するということを試してみる。つまるところそれは、ただの日記だ。 こうやって、文章を書こうとすると、理論的に道筋を立てて、整理されたものを書かなければならなそうな気がしてくる。 そして、わたしはそういう文章が好きなので、なおさらだ。 過程と結果が見事に連なっていて、隙のない文章には、ぐぅっと言わされる。 だからこそ、そんな文章は到底書けないと思ってしまうので、

          問題を解決しようとすることの危うさ|『土と内臓』を読んで

          『土と内臓』という本を読んだ。 5年くらい前に買っていて、ずっと積んでいたのだけれど、ついに読み終えることができた。 読めなかった理由はいくつかあって、そもそもこの本がなかなか分厚いということ。 そして翻訳本ということだ。 翻訳本は少し苦手。 特にポピュラーサイエンス本特有の自叙伝のような語り口を読みにくいと感じてしまって、なかなか読み進めることができない。 専門的な内容が含まれる類のものなので、ある程度本を読み慣れている人ではないと、理解するのに時間がかかってし

          問題を解決しようとすることの危うさ|『土と内臓』を読んで

          お寺さんの孫だと思われても

          のりまいさんという方がいらっしゃいます。 Instagramでフォローしているのだけれども、何をしている人なのかはあんまり理解していません。 sui.という生活雑貨を販売するセレクトショップを運営していたようですが、最近は手放されたようなことが書いてあった気がします。 何をされている方なのかはあまり分かりませんが、いつも素敵な世界観をシェアしてくださっています。 そんなのりまいさんが、祖父のレザージャケットと腕時計を最近身につけている、という内容を投稿しておりました。

          本を読めるようになった私

          本を読めるようになりました。まだほんの少しだけれど。 一年前ほどから、本を読もうと思い立ち、コツコツと小さく読んできました。 これまで本はまったく読んでなかったというわけではないけれど、読んできたものはビジネス書や自己啓発書のようなものが多くて、『そういうんじゃないんだよな』と思うところがあったのです。 もうちょっと感性が必要なものだったり、論理的な思考が必要なものだったり、いわゆる本好きと呼ばれるような人たちが『面白い』と唸っている本を読めるようになりたかったのです。

          言葉にならない大切なもの

          頭の中のことはなかなか伝えることが難しい。はて、自分の頭の中をどのくらい言葉で表現できているだろうかと考えてみると、おそらく1割も満たない。しかもその1割も偽りのものであることも考えられる。 つまり、頭の中のほとんどのことを言葉で表現することは、まったくと言っていいほどできていないのだ。 だとすれば、それはそれでいいのではないかと思う。いっそのこと、言葉で伝えることはあきらめてもいいのではないかなとも思う。そうやって開き直ったときに、なにか新しい表現方法が見つかるかもしれ

          【面白い】は『なにげない習慣』から滲み出してしまうものなのでは

          先月からミモリラジオを聴き始めて、やっとキツツキ編に追いつきました。 リアルタイムに追いついてしまうと、まとめ聞きができないのが、ほんのりと寂しいけれど、新しい回が更新されるのをまだかまだかと健気に待つのも、それはそれで楽しいのです。 それにしても【番外編・筋肉編】が面白かった。ところどころでAndyさんが爆笑しているのが微笑ましい。 完全に影響を受けまして、わたしも筋トレ(腕立て伏せ)を始めようと思いまっする。 最近の自身のテーマの中に『体力』というものがあって、も

          【面白い】は『なにげない習慣』から滲み出してしまうものなのでは

          『コンテンポラリー自分』を求める動き

          東京を経由して、実家のある千葉に来ております。 東京方面に来る際にはいつも高速バスを使っているのですが、3時間ほど揺られているとなぜか思考が働くのですね。 ふらふらっと考えたいテーマが浮かび上がってきて、勝手に頭の中で文章の執筆がはじまり、思考の整理が進みます。 なので、高速バスに揺られるとなぜか文章を書きたくなるのです。アウトプット欲求が増してくるのですね。 今回はなんとなく、コンテンポラリーダンスについて思考したいなと思いました。 ちょいちょい書いているように、

          『コンテンポラリー自分』を求める動き

          なにがあっても感じることをしてみる

          感じるとか味わうことって、大事だなって思います。その理由を説明するのはとても難しいのだけれども、目の前の事象を味わい感じている瞬間は善し悪しという世界から抜け出しているような気がするのです。 わたしたちはふと気がつくと、善し悪しの世界に生きてしまうことがあります。あの仕事はいい仕事だ、立派な仕事だ。あの人はすごい人だ、実績もある人だ、というように。目の前に起こっている事象に対しても、無味無臭のフラットなものの見方をするのは難しいことです。 いまわたしのしている仕事はたいし

          なにがあっても感じることをしてみる

          わたしという意味を解放していく運動

          ご近所にある映画館が閉館になるということで、リバイバル上映をされていた『すずめの戸締り』を観てきました。この映画館は新海誠監督の生まれ故郷から近いところにあって、このエリアでは唯一の映画館でした。そういうこともあり、閉館までの期間中、新海監督の作品がいくつかリバイバル上映されていたのです。 1年前の作品なので内容の批評は置いておいて、この映画を見終わったときに、わたしは『他者に伝えられないことを大切にしよう』と思ったのです。劇中に鈴芽が愛媛で出会った友人と布団を並べながら言

          わたしという意味を解放していく運動

          過去に無頓着な人間

          文章を書きたいということを書いたけれど、ひとつ書きそびれたことがある。それは自分の思考はおそらく『未来志向型』だということ。その反対は『過去回想型』だ。以前、個性心理学(動物占い)を見てもらったときに、そのような言葉があることを知った。私は幻獣ペガサスちゃんなのだけれど、ペガサスは『未来志向型』らしい。 思い返して見れば、自分は過去に無頓着だ。興味がないと書こうと思ったけれど、できることであれば興味を持ちたいと思っている。でも意識を向けることが苦手だ。過去にピンとこない。過