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価値や意味などというレールから飛び降りて、私から生まれる運動『そのもの自体』を楽しむこと


千葉雅也さんの『センスの哲学』を読みました。

千葉さんはもともと芸術寄りの人間だということで、論理的にも感覚的にも両側面から思考されていて、とてと共感できるものだった。

哲学者の言語化能力ってやっぱりすごい。


『センスとはリズムだ』


このような切り口で本書は、センスという実態の把握しにくい感覚の輪郭を浮き彫りにしていきます。

センスは『上手い⇄下手』という世界のレールから早々に降りてしまうことであり、自分自身から生み出されるオリジナルな運動を楽しむ行為だ、ということ。

そのために必要な意識がリズムであり、意味的なものから離れて、直感的にリズムや配置や並び『そのもの自体』を楽しむことから始めようというお話が組み立てられていきます。




先日、ゆるゆかなコーヒー屋さんをやってきました。

コーヒー屋さんと言っても、知人のブルーベリー農家さんの直売所スペースを借りて、夜な夜なコーヒーを楽しむというだけのことなのだけれど、そこで演劇の話になりました。



このブルーベリー農家さん(黒岩さん)は演劇が好きであり、戯曲を書いています。

わたしはこれまでの人生で演劇というものにほとんど触れてこなかったので、演劇というものの印象はとても『得体の知れないもの』として映っています。

演劇というと『演技』を連想する人は多いと思うのだけれど、『演技』というと映画やドラマを思い浮かべてしまいがちだったりする。

だからといって、映画やドラマと演劇が同じものなのかというと、それはそれでまったく異なるもので、楽しみ方もまったく異なるものなのだろうと、少ない演劇体験から今のところは感じています。

なにが言いたいのかというと、演劇はそれほど身近なものではないということ(少なくともわたしにとっては)。

そして、より身近なところに、似て非なる映画やドラマがあるからこそ、勘違いされやすいものなのだろうと思うのです。




演劇を楽しむためには『意味』ではなく、『リズム』を楽しむ要素が映画やドラマよりも必要なのだろうと思います。

千葉雅也さんは『エンタメ的なもの』と『芸術的なもの』違いを述べているけれど、演劇はより芸術的要素が強いのでしょう。

ちなみにエンタメと芸術を大雑把に解説しておくと、エンタメ的なものは物語の起伏がわかりやすく、ハッキリしており、起承転結が明確に感じられるもののことを指します。

芸術的なものはそれらが曖昧であり、物語の回収要素が薄く、明確な着地を必要としないもの。

もちろんこれらはグラデーションであり、エンタメ的なものでも芸術っぽいものもあるし、その逆もある。エヴァンゲリオンなんかはとても前者的(エンタメだけれど芸術的)なのだと思う。



演劇も含む、小規模な民間的な芸術(などと言うと失礼かもしれないけれど)、つまるところ芸術畑ど真ん中にはいないけれど、芸術的なものに魅力を感じ、模索しながら取り組んでいる方やその活動は、もっと日の目を浴びてもいいのだと思うし、そういうものがもっと日常に溢れて欲しいなと思う。

けれども、わたしも含めて、そういうものを観賞する感覚が身についていない場合、その存在はとても『得体の知れないもの』に映ってしまう。だから、敬遠されてしまう。

演劇は安易に映画やドラマと比較されてしまう恐れがあるし、刺激が強くわかりやすいオンライン上にあるショート動画にその時間を奪われてしまう。

ここから抜け出すためには、千葉雅也さんの言葉が役に立つのでしょう。それは、意味から抜け出して、リズムを楽しむということ。

リズムというのは『そのもの自体』を楽しむこと。何かを目指そうとすることなく、何にもなろうとせず、価値や意味などというレールから飛び降りて、私から生まれる運動『そのもの自体』を楽しむこと。

これは演る方にも、観る方にも必要なこと。どちらも未熟なわたしにとっては、とても感慨深いお話なのでした。




蛇足ですが『小規模な民間的な芸術』と言葉にしてみると、なんだか宮沢賢治の『農民芸術概論』が頭に浮かんできたのだけれど、賢治も同じような課題を感じていたのかもしれないですね。





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