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わたしの哲学と概念、そしてモジュール


手元にいくつか本が溜まっています。それがとても良い感じです。

確か2年くらい前。

まったく本を読まない人間だったわたしが、『なにやら本にはとても面白そうなことが書いてあるらしい』と感じ出して、少しずつ読みはじめました。

本を読むには『筋力』が必要です。

これは比喩的な意味での『筋力』(つまり文章を読むことに慣れるという意味との筋力)と、リアルな筋力(体力的な意味での筋力)のふたつの意味があります。

本の面白さを感じるためには、筋トレが必要だったのです。

だからコツコツと本を読みはじめました。

はじめは自分の好みや興味もよくわからなかったので、図書館に行き、興味のありそうなものを手に取り読みはじめました。

よほど簡単なものは除いて、一冊読むのに2ヶ月くらいかかりました。

幸い、小諸市の図書館はなかなか面白い選書をしてくれていて、読みたい本が結構ありました。

それでも、自分が読みたいと思った本がピンポイントで無いこともあり、書店で買うことをはじめました。

途中数ヶ月読まない時期もありました。

とくにノルマ化していたわけでもないので、気ままに読むときもあれば、読みたくなくなることもありました。

いま振り返ると、たぶんこの頃はまだまだ、自分の好みがわかっていなかったのだと思います。

しばらく経つうちに、自然と読みたい本が次々と現れました。

だいたい、本を読む練習をはじめてから、一年半くらいたったときだと思います。

読みたい本が見つかると、どんどん読書量が増えてきます。

もちろん読まなくたっていい。でも読みたいから読む。

この感覚が得られたことは何よりも嬉しいことでした。





わたしは結構な確率で『哲学者っぽいよね』などと言われることがあります。

(それとスナフキンっぽいねとも言われます)

記憶の中ではおそらく、大学生の時に地元の友達と西船橋駅前にあった『笑笑』で毎晩のように朝まで飲んでいたときに、酔っ払いながらそのようなことを言われていた記憶があります。

昔っからあまり変わっていないということですね。

確かに、ややこしいことを考えたり口にしたりしているし、抽象的なことに興味や意識がいくので、そう見えるのかもしれません。

けれども、もちろん職業は哲学者ではないし、古典的な哲学者の本もほとんど読んだことがありません。

(しいて言うなら、仏教哲学をちょっと)

ソクラテスやプラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、ハイデガー、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン...

手をつけたいと思いながらも、まぁやはり難しいので、専門的なことはなかなか難しいのです。

京都市在住の若手の哲学者、谷川嘉浩さんは著書の中で『哲学』というものの定義をこのようにしています。


 哲学するとは、プラトンに始まる一連の会話に参加することだと私は考えています。哲学は、ただ考えることではなく、連綿と続く知の巨人たちの言葉を聴きながら考えることなのです。

谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』79頁(ディスカヴァー・トゥエンティワン)




この言葉には『そりゃぁそうだぁ』と深く頷きました。

2000年以上、脈々と受け継がれては破壊され、再構築して、を繰り返されてきた歴史を無碍にしてしまうことは、愚かとも言えるかもしれません。

まさに巨人の肩に乗る、ということ。

はたまた、『哲学対話』をカフェや学校などの各地で実践されている哲学者の永井玲衣さんはご自身のポッドキャストの中で、このように述べています。

(著書『水中の哲学者たち』(晶文社)にも同じ趣旨の文言が書かれていたと思いますが、手元になかったので引用できませんでした)


 『哲学』って、なんなんだって話だと思うのですが、これ、難しい学問とかではなくてですね、きわめて日常的な営みなんです。
というのも...『なんで?』『どうして?』という問いに立ち止まって考える...これを私は哲学って呼んでいるんですね。

夜ふかしの読み明かし【読書・哲学】
(文化放送PodcastQR)




つまり、哲学は誰でもできる。日常の中からからはじめることができる。そういうことなのです。

谷川さんと永井さんの『哲学』というものの解釈は異なっています。一見、正反対と言っても良い。

どちらのスタンスも大切なことな気がする。

きっと、どちらが正解でどちらが間違っているというわけでもない。

谷川さんは著書の中で、このようにも述べています。


 何日も何ヶ月も悩んで出した結果が、従来言われていること、すでに実践されていたこと、他の誰かに一瞬で追いつかれる程度のこと、あるいはそうしたものの劣化コピーだったことは一度や二度ではないはずです。自分の手で考え抜いた末に、仮に何か核心的なことがわかった場合ですら、すでに誰かがやっていることだったり、専門家に聞けば、数分でわかる程度の情報だったりする。

谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』67頁(ディスカヴァー・トゥエンティワン)


なかなか耳の痛い意見ですが、確かにというところです。そして、さらにこのようにも続きます。


 いや、アウトプットが平凡で陳腐というくらいなら害はありません。けれども、炎上案件やコンプライアンス違反案件だって、よくよく考えれば、当人たちが自分なりに考えて出てきた企画、取り組み、判断だったはずです。

同書67頁


この後に谷川さんは、いじめやハラスメント、陰謀論者も『自分の頭で考えた結果ですよね?』と続けます。

つまり、自分の頭で考えることって、『結構危ういことなんじゃないかな?』という投げかけです。

自分で考えた気になって、平気で人間は過ちを犯す。

その事実を受け止めて、その上で一度立ち止まって、過去から学んで考えようということです。





わたしはもちろん前者(谷川さん的)ではなく、後者(永井さん的)な人間なのですが、前者に近づきたいなぁとは思っています。

永井さんの『哲学対話』の取り組みを知る限りでは、『平等感』を大切にされているなぁと感じます。



永井さんの実施する『哲学対話』のルールの中には『偉人の言葉を使って、正しさを主張しない』というようなものがあります。

それはつまり『なんかそれっぽいことを言って、マウントを取らない』ということです。

正しさを主張するのではなく、お互いの意見を尊重した上での擦り合わせ、もしくは重ね合わせの時間を大切にする。

そこには相手へのケアが存在しています。

一方で谷川さんの言っていることも理解できます。

自分で考えることには限界がある。しかも、結構それは早々にやってくる。

自身の思考を深めるためには、他者の言葉に寄りかかることが必要です。

ただ、理論だけを振りかざした頭でっかちになることへの懸念がここにはあります。

わたしはコンテンポラリーダンスを学んでいますが、身体を動かすことでわかることは本当にたくさんあります。

どれだけ本を読んで理論的にはわかっていても、頭で理解しているものと、体感知として得たものとの肌触りはまったく異なります。

そういう意味では、永井さんの語る哲学は『身体性が伴った肌感』であり、谷川さんの語る哲学は『それを発展させるための階段のようなもの』なのかもしれません。

本をいろいろ読んでいると、著者は様々な著作の言葉や研究の結果を引用しています。

それはアカデミックのお作法であるし、文章を書く上で最低限守らなければならないルールのようなものです。

そういう過去の言葉や出来事に影響を受けて、自分自身の考えや価値観をアップデートしていくこと。

これが身近にできる自分なりの哲学なのかなぁと思っています。

研究者ではない以上、永井さん的な立場をとることしかできないけれど、できるだけ過去に影響を受けることを試みる。

できることならば、古典的なもの(谷川さん的な哲学)にも触れた上で考えてみる。

それができなければ、古典的なものから影響を受けている人の影響を受けてみる。

そうやって、知の末端に立ってみることを、わたしなりの哲学としてみようと思ったのでした。

(ちなみに、谷川さんは著書の中で漫画やアニメの引用を多用しています。古代からつながる哲学を重用する一方で、そこにこだわり過ぎない広い視野が感じられるのも、彼の魅力のひとつです。)





教育者であり、哲学者でもある近内悠太さんは著書の中で戸田山和久という哲学者の言葉を引用した上で、『哲学とは?』という問いに、このように答えています。


 哲学者の戸田山和久は、「哲学は結局のところ何をしているのか」という問いに、「哲学の生業は概念づくりだ」と答えています。では哲学は何のために概念をつくるのか。答えは「人類の幸福な生存のため」です。

近内悠太『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』5頁(NewsPicksパブリッシング)


わたし自身の哲学が『人類の幸福の生存のため』に寄与できるのかどうかはひとまず置いておいて、『わたしの生き方』についての模索であり、幸福追求であることは可能です。

『哲学者の生業は概念づくりだ』というフレーズを聞いたときに、わたしは『これはモジュールだな』と頭に浮かびました。

モジュールというのは、エンジニアの世界で使われる言葉で、ハードウェア、ソフトウェア問わず、『システムを構成する要素のこと』とされます。

つまり、いろんな小さな部品を組み合わせて作られた、より大きな役割を持った部品のことを指します。

たとえば、Wi-Fiルーター。

わたしたちは日常的にWi-Fiを使っていますが、その仕組みまで理解している人はほとんどいないはずです。

Wi-Fiルーターを設置して、通信会社と契約すればPCやスマホが繋がる、というくらいの認識です。

このWi-Fiルーターにはたくさんの部品が使われているし、さまざまな技術が使われています。

でも、Wi-Fiルーターというひとつの機能として見たときは、その細かな部品や技術のことに意識を向けることはありません(ブラックボックス化する)。

Wi-Fiルーターをひとつの部品として見なします。

これは、広い意味でのモジュール化と言ってもいいでしょう。

哲学にも同じような感覚がある気がします。

さまざまな部品としての言葉や出来事を使って、より大きな部品(概念)を構築する。

その部品を使って、またより大きな部品(概念)を構築する。

その営みなのではないかと。

そういう意味で、コンピューターサイエンスと哲学には似たものを感じるのです。




わたしなりの哲学をはじめるには、まずはモジュールづくりから。

そんなことを考えました。

問いや気づきは、日常的なものでもいい。

わたしから生まれる哲学はとても尊いものだと思います(永井さん的な哲学)。

けれども、問いを問いのままにしてしまうのはもったいない。

過去や他者から影響を受けて、思考の階段を積み重ねていくことで、より広く、深い視点を手に入れることができます(谷川さん的な哲学)。

そして、それを言葉にして、モジュール化する。

モジュール化したものは、もしかしたら他の誰かがより良く生きるための部品になり得るかもしれない。

そのような関わり合いは、とても楽しいことのように思います。


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