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『ほんとう』であり続けるために


夏のイベント目白押しDAYが過ぎ去り、ひと段落しました。8月になったばかりで、まだまだ夏真っ盛りな気分な人も多いかもしれないけれど、長野の夏は短い。お盆が過ぎれば、あっという間に秋の空気に包まれていくのです。

11月まで月一で予定しているBBGセッション(コンテンポラリーダンスを学ぶ集まり)も後半戦を迎えました。回数を重ねるごとにより濃い時間へと変化していくのがわかります。やはり学ぶというのはこうでないと。より深いところに行くためには、相応な時間と環境が必要なのですね。


『BBGセッション』はダンサーであり振付家の鈴木ユキオさんを講師にお招きし、長野県小諸市にあるブルーベリーガーデン黒岩にて開催されています。わかち座主催、信州アーツカウンシルの2023年度支援対象事業です。


写真はYukio Suzuki projectsのSNS投稿より
お借りしました。



さて、今回は9月6日に行われたBBGセッションにて体感したことの思考のまとめをしておこうと思います。いつも気づきが盛り沢山なのと、ダンスという特性上、身体感覚での学びが多いこともあり、言語化しておかないと気持ちが悪くて、言語化したい欲求が高まっているのです。あくまでも自分のための文章なので、読みづらいかもしれませんが、つらつらと。




と言いつつ、いきなり話が逸れてしまうのですか、『言語化できる』というのは、割と特殊能力なのだと思います。特殊能力というのは『生まれつき備わっている能力』という要素が強いという意味です。もちろん後天的に身につけることもできるのだろうけど、やはり言語化することの得意、不得意の差はなかなかそう簡単には埋められないものだと考えています。

僕はどちらかというと言語化が得意なほうです。ただ、それが偉いとかどうとかそんなことを言いたいわけではまったくありません。それは『世界をこういう角度から観ている』という、世界の見方というジャンルの一つであるだけで、『なにに納得できるのか?』という性質の違いの一つであるだけなんじゃないかなと思うのです。

僕は人というものは基本的に直感で動いているのだと思っています。そして、その直感の精度はかなり高く、言葉にはできなくても、直感では理解できるという場合がいくらでもあると感じています。むしろ、本人が理解できていなくても、直感的な行動が後から見たら最適解だったというようなこともありえるんじゃないかとも思います。直感は理解を超えるけれど、それは決して無鉄砲だというわけではなく、『なんとなく辻褄があっている気がする』と感じられるものなのではないかなと思うのです。

なので、極端なことを言って仕舞えば、言語化なんて必要ない。直感でわかっているのだから、わざわざ言語化する必要なんてない。しかしながら『言語化しなければ気持ち悪い』という人種が中にはいるんですね。僕はその人種の一人のようなのです。直感的に体感したことを整理して、理論立てて説明できるように保管しておきたいという欲求があります。これはもう、そういう性癖なのだと理解するしかないのだけれど、決して目的があってやっているわけではないのです。

もちろん言語化することで、頭の中が整理されるなどして役に立つことはあるだろうし、こうやって文章に残すことで、誰かの目に止まり、その人の学びの一つになることもあるかもしれないけれど。でもそれは、目的ではなく単なる効果なのですね。

とはいえ、言語化というものが便利だということも、それはそれで現実的です。言語化することで『他者に伝えることができる』ようになります。そして『記録に残す』ことができるようにもなります。だからと言って、大事なことだから二回目だけれども、これができるからと言って優れているというわけでもなくて、言語化をできない(もしくは、やりたいと思えない)人種はまた別の才能や役割があるのだと思います。それはトレードオフ。一長一短なことです。




さて、思いっきし話を逸らしてしまいましたが、戻っていきましょう。今回、言語化したいテーマは『ほんとうである』ということです。または『ほんとう』ということについて。コンテンポラリーダンスの講師として来ていただいている鈴木ユキオさんは『ほんとうである』という言葉をよく使います。

どういうときに使うのかというと『ほんとうであることで、動きに説得力が生まれる』とか『ほんとうであり続けることで、ついつい見てしまう身体になる』というような感じです。ユキオさんは、まったく同じ意味で『リアル』という言葉を使うこともあります。



『ほんとうである』という言葉は、そのことについて考えれば考えるほど、言い得て妙だなと思うのです。少し抽象的で、すぐには理解できない言葉でもあります。聞いた人は、まずは『ほんとうって何だろう?』という疑問が浮かぶ場合がほとんどなんじゃないかなと。それは抽象度が高いからです。言葉というのは具体的に表そうとすればするほど『間違っていく』という性質があります。『間違っていく』といってしまうと少し強いかもしれませんが、言い換えると『厳密じゃなくなっていく』ということです。

例えば、ダンスを上手く踊れるようになるためには、どうすればいいのか?と考えてみたときに、具体的な解を与えてみたとします。例えば『背筋や指先をすっと綺麗に伸ばすといい』みたいに。それは一見、その通りそうな解答ですが。本当にそうなのでしょうか?それはあくまでも『そういう場合もある』という事例の一つではないのでしょうか。

背筋がぐにゃぐにゃでも造形が美しくなくても、でも『それこそが美しい』と感じてしまうことって芸術の中にはあります。だからといって、ぐにゃぐにゃが正解かと言われたら、そういうわけでもない。そんなことを思うのです。答えを具体的にすればするほど、理解はしやすいけれど、厳密じゃなくなっていく。それに対して、答えを抽象的にすればするほど、正しさは増えていくけれど、わかりにくくなっていく。これもトレードオフ。

『ほんとうである』という言葉は、ぱっと見では意味がわからないかもしれない。でも、その言葉を頭の片隅に置いておいて、その状態で学びを深めていくと、その道すがらで『あ、もしかしたらこれが "ほんとう" なのかもしれない』という体験や発見と出会うことがあるのかもしれません。そのときにこれまでわからなかったことの一片を掴めたような感じがする。そしてそれをまた追いかける。これを繰り返す。これが学びのプロセスなんじゃないかなと思うのです。




そんな抽象的であるけれど、言い得て妙な『ほんとうである』ということ。野暮なことだとわかっていながら、少し言語化してみようと思います。これは変態言語化モンスターの趣味だと受け取ってもらえたら幸いです。

『ほんとう』というのは、なんとなく平仮名で表記してしまったけれど、もちろんのことながら『本当』という言葉をひらいたもの。『ほんとうである』というのは、何かが本当だから『ほんとう』なのであって、『本当』があるのであれば『嘘』もあるはずです。『ほんとうである』という状態があるのであれば、反対に『うそである』もあるということになりそうです。では、ここでいうところの『うそ』とはどんな状態を指すのでしょうか。

私たちは嘘をつきます。きっとこれを読んでいるあなたも嘘をついたことがあります。あなたは嘘つきです。もちろん僕も嘘つきです。とびきりの嘘をついたこともあれば、小さなかわいい嘘をついたこともあります。じゃあ、その嘘はどんなときにつくのでしょうか。どんなときについてしまうのでしょう。細かく分類すれば、たくさん理由はあるのだろうけど、ここは思い切ってザックリとひとつにまとめてみたいと思います。私たちが嘘をつくとき。それは...『弱さを隠すとき』です。

私たちは『弱さを隠す』ために嘘をつきます。母親の大事にしていた花瓶を割ってしまったのに『ちがうもん』と言ってしまうのは弱さを隠すためです。大型商業施設の屋上駐車場に車を止めて昼寝をしていたのに『営業に行ってきました』と言うのも弱さを隠すためです。私たちは弱いからこそ嘘をつく。

人間はとても弱い存在です。とくに私たち日本人のような都市的生活に慣れてしまった人間は自然に対して思っている以上にとても無力です。ジャングルに放り出されれば食料を確保するのも困難で、暑さや寒さを凌ぐ術すらまともに知りません。大型の獣に出会えば速攻で肉塊となってしまう自信があります。なんなら体躯では遥かに小さい蚊に刺されて、マラリアになって熱にうなされながら死んでしまうこともあります。

そんな極端な例を出さなくても、私たちの弱さは日常生活の中にたくさん転がっています。永遠の愛を誓ったはずの彼(または彼女)に浮気をされ、絶望の果てに突き落とされているときには喉にものも通らないだろうし、高級ホテルに宿泊して、綺麗に着飾った写真を撮りSNSに投稿することでなんとか自分の立場を守ろうともします。

そうしないと社会の中で存在できないような気がしてしまう。他者の目が気になって、自分が列からはみ出していないかを気にしながらビクビクしながら生きている。僕らはそんな弱い生き物なのです。だから僕らは嘘をつく。強くなろうとする。本当は弱いのに強くなろうとする。強いフリをする。弱い自分を一生懸命隠そうとする。これが嘘の原動力だと思うのです。私たちは弱いから嘘をつく。弱さを隠すために嘘をつくのです。

僕たちはそんな社会に生きてしまっています。嘘をつくことが当たり前のように定着している社会に生きています。もしかしたら『強くなろう』と言うのは『嘘をつこう』と言っているようなのかもしれません。はたまた、進化論のダーウィンに言わせれば『嘘をつく個体がたまたま生き残ってしまった』のかもしれません。どちらにせよ、私たちは『嘘をつく癖』がついてしまっているということです。それは『弱さを隠す癖』と言い換えてもいいでしょう。

人間が本質的には弱い生き物であるのであれば、『弱さを隠す』ということは『嘘をついている』ことになります。『強くなろうとする』ことも『嘘をついている』ことになります。となると『本当』はどこにあるのでしょうか。『本当』とは『嘘』ではない状態です。つまり『弱さを隠していない』状態のこと。『弱いままでいるとき』こそが『本当』の状態と言えるかもしれません。

ユキオさんは演出をするときも自身でソロで踊るときも、『ほんとうである』ための仕掛けを散りばめていると言っていました。常に『ほんとう』であり続けるために、気持ちよく自分の世界だけではいられないようなトラップのようなものを仕掛けているとのことでした。

それは言い換えれば、ついつい『弱さが滲み出してしまう』ような『隙』をつくる行為なのかもしれません。人は自分の想定外の出来事と出会ったときに咄嗟に反応せざるを得なくなります。その咄嗟の反応には『弱さ』が滲み出てしまうものです。強くあろうとしていた緊張感が解き放たれ、限りなく素に違い状態になります。

はたまた、なにか目の前のことに没頭しているときも人は隙だらけになります。虫眼鏡で熱心に小さな昆虫を追いかけている少年の背後がガラ空きなのは言うまでもないでしょう。不自然ではなく自然に『弱さ』を滲み出させるためには、これらのような方法ががとても有効なのでしょう。咄嗟な反応をせざるを得ない状況をつくるか、目の前のことに没頭させるか。もちろん他にも方法があると思いますが、どちらにしても思わぬ『隙』をつくることが重要そうです。




『ほんとう』とは、『弱さを滲み出してしまっている状態』のこと。もしくは『弱さを隠そうとしていない状態』とも言えるかもしれません。これで『ほんとうである』ということの定義がなんとなく定められました。それではなぜ、そんなにも『弱さが滲み出ている状態』、つまり『ほんとうである』状態が大切なのでしょうか。なぜそんなに重要なのでしょうか。それは唯一無二で、作り物ではなくて、オリジナリティあふれる愛おしいものだからなのかなと思うのです。

こればっかりは僕自身が明確な答えを持っているわけではありませんが、作り物ではない『私』としての『純度が高い状態』だから、それは魅力的なのではないかなと思うのですね。嘘ではない状態。本当の状態には、なにやら不思議な重力があるように感じます。『弱さ』はその人自身の本質的な部分なのではないかと僕は思います。逆に強さを求めると、ありきたりな画一化したものになっていく可能性が高くなります。

たとえば、ランダムな数十人を集めて、いっせいのーせでYouTubeをはじめたとします。そして、登録者数を競うとします。ここでは単純化するために、登録者数を強さのバロメーターとしてみます。そうすると参加者はYouTubeの登録者数を増やすために、あれやこれやと知恵を絞りますが、ほとんどの場合、ネット上や情報商材的なものに書かれているハウツーやテクニックを駆使します。そうすると何が起こるかというと、結局効率化されて整理された情報というのは一つの型に収束していきます。そして、同じようなコンテンツが量産されていくというわけです。

実際にはこんなに単純にはいかないのかもしれませんが、強さを求めると、その人が持つオリジナリティのようなものが削られ、無味乾燥としたどこかで見たことのある汎用量産型のコンテンツや作品が生まれてしまう可能性がとても高くなるのです。しかも、強さって『いま自分が持っていないもの』を補う行為です。それを積み重ねることや維持していくことって、とてもコストがかかります。これはとてもコスパが悪い。

それに比べて『弱さ』というものは唯一無二なものになる可能性がとても高いです。だって、『弱さ』は誰もが生まれながら持っているものだから。しかも、無意識に発動しているものです。事物というものは、観る側面によって価値が変わります。『弱さ』だって、別の側面から見れば『強さ』に変わります。逆に『強さ』も『弱さ』に変わり得ます。しかし『強さ』はコスパが悪い。そして量産型になりやすい。その結果、限界が訪れやすいではないでしょうか。

僕が以前働いていたところに『萌木の村』という、ホテルやレストラン、クラフトショップなどが併設された観光施設のようなところがあります。そこにはナチュラルガーデンといって、完全オーガニックでつくられた庭園があります。ポール・スミザーさんという日本在住のイギリス人の方がデザインしている庭です。



いまは増えているのかもしれませんが、オーガニックガーデンというのはなかなか珍しいもののようです。西洋的な庭はきれいに着飾って、観賞用につくります。そうなるとそこに植える草花はその土地や気候、湿度や日照時間など、本来の必要最適なものとは異なってきます。本来あるべきではないところに植えられている草花は、健康に育てるためにとても手間がかかります。

ポールさんの庭は植える植物たちの特性を最大限活かすための工夫を繊細におこなっています。土の柔らかさや湿り気、風通しの良さ、日当たりの良さなど、あらゆるパラメータを考慮して、その植物がもっとも心地よいと感じられる場所に、適材適所に居場所をつくっていくのです。

さらにポールさんが言っていたことで、とても印象的だったのが『お花はボーナスなんだよ』という言葉です。どうしても観光地的なガーデンというと来場者は花を見にくる傾向があります。でも花って、とても一時的なものです。その花が年がら年中咲き誇っているなんて、不自然極まりないのです。だから、花に頼っているガーデンはどこかで無理が生じてしまう。ポールさんは『花に頼らないガーデン』をつくっています。それは『緑が美しいガーデン』なのです。それゆえにポールさんのナチュラルガーデンは別称『グリーンガーデン』とも呼ばれます。

無理に花を咲かせようとしない。花という特別なものに必要以上に頼らない。草花たちが心地よくいられる環境を出来る限りつくり、ただそこに存在している本来の姿を観てもらう。その美しさを知ってもらう。そんなガーデンなのですね。これはなんとなく私たち人間の営みにと繋がるものが感じられるのではないでしょうか。

『弱さ』を見せることはとても不安なことだったりします。当たり前のことですが、わざわざ自分の弱みを見せるようなことは自分を不利な状況に陥れることもあるからです。『バカにされたらどうしよう』『怒られたらどうしよう』『誰かと比べられてダメな奴と思われたらどうしよう』そんなことが頭をよぎったりします。

そして、その先にある『仕事をクビになったらどうしよう』『先方に怒られたらどうしよう』『彼氏に嫌われたらどうしよう』『友達からハブられたらどうしよう』などという、現実的な不安が頭をよぎり、ついつい『弱さ』を隠してしまうというわけです。でも実は多くの人が気づいているのだと思います。強がっていても(弱さを隠していても)あまりいいことがないっていうことを。

むしろ自分にとっての自然な状態、つまり『弱い自分』を見せられていたほうが自分特有の魅力を発揮されやすいし、助けてくれる人が現れるし、共感してくれる人も増えるということを。




さあさあ、ちょっと長くなって来たので、ここらでまとめたいなと思いますが、今回なにが言いたかったのかというと『ほんとうである』ということは『弱さが滲み出ている状態』なのではないか、ということです。ちょっと勘違いされそうなので補足をしておくと、『弱さ』を見せたほうがいいからといって『弱さを演出しろ』と言っているわけではありません。

もしくは『ビクビクと怯えたまま生きていきなさい』と言っているわけでもありません。むしろ逆です。弱さを見せられている状態というのは、その先にある不安や恐れを克服している状態ともいえます。『私は弱いままでも大丈夫だ』と安心している状態なのです。

そうやって周りを信頼して、流れに身を任せている状態。これが『弱い自分でいる状態』なのだと思います。そして、この状態って、とっても力強いのです。不思議なのだけれど。弱くなると強くなるんです。逆に、弱さを隠そうとして強くなろうとすると弱くなってしまうんです。

ちょっと偉そうに語りすぎてしまいました。僕自身が長年考えて来たテーマでもあったので、ついつい熱がこもってしまいました。言語化できることと『出来ること』はまったく別のものです。どれだけ頭で理解していても、実践することは遥かに難しいということはひしひしと感じています。まだまだ僕も旅の途中です。

でも、この一年くらいで自分でも変化がわかるようになって来ました。自分の言葉や表現に少しずつ力が生まれていることが感じられるようになって来ました。大きな変化を求めてしまうと、逆に停滞してしまうことがあります。それは『大きな変化』を求めてしまうことは『弱さ』から逃れようとしていることだから。だから少しずつじんわりと。自分を変えようと、変わろうとするのではなく、ただ『ほんとう』であり続けることが大切なのだと思います。




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