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わたしという意味を解放していく運動



ご近所にある映画館が閉館になるということで、リバイバル上映をされていた『すずめの戸締り』を観てきました。この映画館は新海誠監督の生まれ故郷から近いところにあって、このエリアでは唯一の映画館でした。そういうこともあり、閉館までの期間中、新海監督の作品がいくつかリバイバル上映されていたのです。



1年前の作品なので内容の批評は置いておいて、この映画を見終わったときに、わたしは『他者に伝えられないことを大切にしよう』と思ったのです。劇中に鈴芽が愛媛で出会った友人と布団を並べながら言葉を交わすシーンがあります。そこで鈴芽は『大切なことは言えないことなのかも』というようなことを口にします(厳密な文言は忘れてしまいました)。

これは草太が『閉じ師』という、決して他者には話せないけれど、人々の生活に大きな影響がある使命を背負っていることに対する言葉です(そして鈴芽もいまはその一端を担っている)。

生きていると他人に話せないことって、なかなかとあります。劇中、鈴芽は育ての親である叔母さんに対して、なぜ東京まで来たのかという理由を話せないでいます。そのことによってコミュニケーションがギクシャクしてしまう。これって、うまく説明できないのではなく、『話しても信じてもらえないから話したくない』というのが、正確な心理描写なのかなと思います。そういうことって、よくあります。

わたし自身も確実に『なにか』や『どこか』に向かっている認識はあるけれど、それを他人に説明することがなかなか上手くできません。そしてそれは、先ほどの鈴芽の例と同じく、説明できないのではなくて、『理解してもらえないだろう』というある種のあきらめから来ているものだったりします。

この作品は、そうやって『伝えられない』『伝えたくない』というものこそ、本人にとって、もしくはこの世界にとっても大切なものなのではないかと教えてくれているような気がしたのですね。だからわたしたちはわざわざ伝えなくてもいい。心に秘めておいてもいい。そんな気がするのです。



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とはいいつつ、少しだけ自分のことを書いてみようと思います。わたしはどこに向かいたいのか。これは自分の中では明確に存在しています。しかし、それを他人に理解してもらえるように説明することはとても難しいなと感じています。

この世界には『環』のような流れがあります。その流れの中に入りたいと思っています。その全体の一部になりたいと思っています。よく聞く言葉に変換すると『悟り』というものと、おそらくほぼほぼ同じなのだと思います。

そして、それと全く同じ意味として、自然物になりたいと思っています。植物や石や岩、土、風、虫や鳥など。人間もそもそもは自然物です。そして、おそらくいまも自然物です。ただし、だいぶ距離が生まれてしまっているような気がします。その距離をなるべく縮めたいと思っているのです。

先日読んだ坂本龍一さんと福岡伸一さんの対談本『音楽と生命(集英社)』で、『ノイズ』と『シグナル』の話がありました。『ノイズ』とは音や物質そのもののこと。『シグナル』とはそれらを恣意的に繋げたもの。そこでは星座の例がありました。星座というのは人間が星を見て、勝手に物語を付け加えたものです。星は星であり、その一つ一つに関連性はありません。でもそれを見て、わたしたちは『あれはオリオン座だ』と意味をつけるのです。



坂本龍一さんは音楽に対しても、『シグナル』ではなく『ノイズ』を大切にしたいと語っていました。音楽になる前の音そのものを大切にしたいという意味です。いい音楽をつくろうとするとそこには人間の意図が含まれすぎてしまい、体系的に方法論としての音楽が生まれてしまいます。つまり、音楽理論的なものを綿密に駆使して、パズルを組み合わせるようにより正確な音楽をつくり上げるというようなことですね。その人間のロゴス優位な作曲思考に疑問を持った坂本龍一さんは、もっと音自体(ノイズ)に意識を向けようとしたわけです。

この感覚はとてもわかります。全体の意味にとらわれ過ぎてしまうと、そもそもの意味を見失ってしまう。わたしたちひとりひとりは本当は意味などないのに、そこに無理矢理意味を付け加えようとしてしまう。それこそが価値だと信じてしまう。だから『意味のない存在』へと回帰したいという欲求が湧き上がってくるのです。星座ではなく、星である自分を本来の星として、星のままであり続けることをしていきたいと願っているのです。

『悟り』の例を出したように、この考え方やアプローチ方法は仏教的なものと大きく重なります。最近、あらためて禅の思想を理解したいなと思いはじめているのですが、おそらく禅の目指している境地も同じようなところです。禅は生活のあらゆるもの(掃除や洗濯、料理など)を修行としてとらえています。当たり前のことを当たり前にこなしていく中で、仏の教えを意識し、体に染み込ませていくということをします。

わたしは現在取り組んでいるコンテンポラリーダンスにもその修行的な要素を感じています。ダンスやクリエイティブに向き合うことで、自らが持つ強い意図(自我のようなもの)を手放していくことができると感じています(そしてそれが芸術に昇華していくことも)。むしろ、自我というものはそもそも存在せず、わたしたちは『ただそこにある』ことが自然なのだということに気づいていくプロセス。それは星座から星へと回帰することと同じことなのだと思います。『わたしという意味を解放していく運動』にこそ、わたしが存在していると感じるのです。



今日のところはこのあたりにしておきましょうか。こんなことは日常の中ではなかなか伝えられることではないと感じています。もちろん同じようなことを感じている人はたくさんいるだろうし、それはコミュニティと文脈を介していれば、容易に届けられるものだったりします。だから発信をしていくことも大事だったりします。

少しずつ自分の言葉で伝えられるようになりたいと思っています。そして、伝えるためには言葉ではなく、事として伝えること。鈴芽がそうしたように。多くを語らず、好きな人のところにいったように。



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