MOTサテライト 2017秋

(2017年に書いたものを再掲します。)

現在休館中の東京都現代美術館は、建物という枠から解放された。清澄白河のまちの中に点々とある展示は、彼がまちなかを散歩した跡のようだった。


MOTサテライト2017秋は、清澄白河エリア、東京藝術大学アーツ・アンド・サイエンス・ラボにて10月7日から11月12日(木・金・土・日・祝)まで開催されています。テーマは「むすぶ風景-Connecting Scapes」。 関連プログラムの1つである、ミリアム・レフコウィッツ氏による参加型パフォーマンス《Walk, Hands, Eyes (Tokyo)》(10月14日)とそのためのワークショップ(10月9日、10日、11日)に参加してきました。

この作品は、観客とパフォーマーが1対1で展開していく作品で、観客は目を閉じ、ガイドとなるパフォーマーに導かれ、約1時間自分の身体のあらゆる感覚を使ってまちの中を体験していきます。
目は閉じていても感じることのできる光、音、肌で感じる風、におい、足の裏で感じる地面…。これらの感覚は日々生活している中で当たり前のように自分と一緒に在るものですが、気づかないことが多いように感じます。丁寧に、ひとつひとつを感じていくと、日常がいつもとは違う組み立て方で自分の前に現れてくるように感じました。

見えているものが見えない
聞こえない世界が聞こえる
見えないものが聞こえる
聞こえないものが見える
感じているものを知覚していない
触れているものが存在していない

そんな矛盾の中で、私たちは生きているのかもしれません。今までは、見えているものが全てだと思っていました。視覚に訴えかけてくるもの=存在しているものだと、「構成」は視覚によってのみ可能だと思っていました。けれども、感覚をひらいていけば自分を取り巻く空間を変えることができます。目を開いた時に全く違うものが目の前にあったとしても、それは視覚が知覚する環境であって、それが全てではないのかもしれません。目を閉じて同じテンポで歩いていると、自分が進んでいるのか、それとも風景が通り過ぎて行っているのかわからなくなります。目を開ければその感覚は消えていき、「自分が進んでいる」という答えが出てしまいますが、それは視覚による答えであって、聴覚による答えは「風景が自分の方に向かっている」でもいいわけです。どの手段で世界を感じていくかを選ぶ権利があって、それによって日常の質がどんどん変わってくることを感じました。

もう1つ、自分にとって衝撃的な体験がありました。これはパフォーマンスの開始前に参加者には伝えないことですが、ガイドは1時間のウォークの中で選び出した約7つのイメージを、一瞬だけ目を開かせることによって、観客に見せます。それは自分の目で他人が撮った写真を見ているようでした。風景の切り取り方が違うと、こんなにも世界が違って見えるのかと知り、驚きました。何によって風景を知覚するかで世界が変わってくる、同じ「見る」でもひとりひとり見方が違うからまた世界が変わってくる。日常の「質」というものは変わる可能性を無限に持っているのではないでしょうか。


最後におまけですが、今回のパフォーマンスを通して私が感じた上野は「自転車の音がする、コントラストのあるまち」です。
自分の知覚の仕方、肌感覚、空間の感じ方…今までとは違った感覚をたくさん体験しました。だからこそ、いつもとは違う感覚でいつもの場所を言い表せたことに意味を感じます。動物園があるところ、緑がたくさんあるところ、美術館があるところ、などいろいろな言い表し方がありますが、それは誰かの、ある見方で知覚したものでしかありません。

「自分にとって、慣れ親しんでいる場所ってどんなものだろうか」
この問いに対する答えをこのパフォーマンスは私たちに教えてくれるのかもしれません。


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