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星は風にそよぐ(第10回)


6月6日

 クレアは近頃、お昼休みにも音楽室で練習していると聞いたので、私は邪魔しないようにそっと聴きに行ってみました。静かにドアを閉めて、一番後ろの席についた途端、クレアが気づいて
「わ!セシル先生。うれしい。聴きに来てくれたんだ。オーディエンスがいると、俄然やる気が湧いてくるの」
と満面の笑顔で言いました。
 音楽家というと、私は静かで落ち着いた人のイメージを勝手に持っていましたが、クレアは違います。いつも明るくて、おしゃべりが大好き。ソロのコンサートをするようになったら、嬉々としてMCをやるんだろうな、と思います。クレアのMCは、きっと楽しいでしょう。
「よかった。邪魔にならないか心配だったから。続けて続けて」
と私が言うと、クレアは
「私が得意な曲、セシル先生に聴かせちゃおう」
と言って、静かに吹き始めました。それは「牧神の午後への前奏曲」でした。
 時間が止まってしまったような気がしました。私は息をするのも忘れて、クレアの演奏に聴き入りました。そのとき私は、確かに、ファンタジーの世界に迷い込んでいました。パンやニンフたちの姿が見えるようでした。
 演奏を終えると、クレアは得意顔で
「ね、セシル先生、どう? いいでしょ?」
「うまく言葉で言い表せないけど、一瞬にして異世界へ連れて行かれたっていう感じよ」
私はそう答えて、
「昨日、アンリがね、クレアのフルートに感動して、いつか共演したいって言ってた」
と付け加えると、クレアは
「ほんとに? したい! 共演、すぐしたい!」
とあまりに前のめりなので、私が
「じゃあ、ミリエル先生に、今日、相談してみるね」
と言うと、クレアは言いました。
「私ね、やりたいことは、すぐやることにしてるんだ」
そして、こう言ったんです。
「私、29歳で死ぬの。だからね、やりたいと思ったら、グズグズ考えてないで、どんどんやっていかなくちゃいけないの」
あまりに思いがけない言葉に、私は凍りつきました。そういうレディを持つ人もいるでしょう。でも、それがクレアだなんて。
 私が何も言えずに見つめていると、クレアは何でもないことのように続けました。
「私、濃く生きるんだ。時間をたっぷり持ってる人をうらやましいって思っちゃうときもあるけど、若いときに死ぬのは私だけじゃない。私より短い人生の人だっているんだもん。とにかく、うらやましがったり、ふてくされたりしてる時間はないんだ。やりたいこと、いっぱいあるんだから」
 ベリーヒルズに向かう船のダイニングで、クリスが言っていたことを、私は思い出しました。
「期限を知っているから、命を無駄にすり減らしたりしない」

 今日の振り返りのとき、昼休みにクレアの練習を聴きに言ったことを話しました。クレアがアンリとすぐにでも共演したがっていると伝えると、ミリエル先生は言いました。
「そうだ。プログラムにはないサプライズの演目を入れちゃいましょうか。アンリたちの演奏のあと。『彼方の光』の前に。『牧神の午後への前奏曲』ならあのコンサートにぴったりの演目。アンリに練習してもらうわ。あと1週間で仕上げるなんて無理!って言われそうだけど、有名な曲だし、アンリならやれるでしょう。アンリは、本来、クラシックが専門なのよ。セシル、クレアの心の願いを教えてくれてありがとう。よかったわ」
 私はそれを聞いた途端、涙が溢れてきてしまいました。なぜ泣いているのか、ミリエル先生にはわかっていたと思います。だから、先生は何も言わないでいてくれました。

6月8日

 昨日の夜はまた、ビストロミュジークへ行って、打ち合わせでした。ロランは芸術大学の仲間とバンド活動もしているので、コンサートの音響や照明を知り合いに頼んでくれたんです。コンサートの最後の曲では照明を消して、スポットライトだけにすることになりました。蛍の飛ぶのが見られるように、です。コンサート当日は、設営からアナベルもお手伝いしてくれることになっています。アナベルとロランは最近、とても仲がいいんですよ。うふ。
 昨日、みんなでとってもおいしいものを食べました。ビストロミュジークの名物料理、牛肉のカルパッチョです。ビストロミュジークはシーフードで有名だけど、お肉料理もとってもおいしいんです。大皿に薄ーくスライスしたローストビーフがぐるりと敷き詰められている一品で、それぞれ違うソースのかかった大皿が3回も出てくるんですよ。1皿目はバルサミコソース、2皿目はマヨネーズソース、そして3皿目はワインビネガーとマーマレードを使ったオレンジソースでした。

 そして今日は、モニカが薦めてくれたお料理の本を買いに、ベリーズブックショップに行ってきました。前回はクロード先生が注文した本を受け取るだけでほとんど本を見られなかったので、今日はゆっくり堪能するぞと気合を入れて行きました。
 ベリーズブックショップは小さな本屋さんですが、お店が見えてきたところから、もうワクワクが始まります。今からこのお店に入るんだ、って。まずは、ショーウィンドウを鑑賞。ウィンドウはピカピカに磨き上げられていて、通りを行く人たちに「見てよ!」と呼びかけます。素通りなんてできません。クロード先生と来たときは、名前は忘れましたけど、ベリーヒルズ出身の小説家の新刊とこれまでの作品が展示されていました。サイン会のお知らせもありました。今回は、紫陽花が表紙の花の写真集が集められていました。好きな花って聞かれて「アジサイ!」って答える人は少ないかもしれないけど、紫陽花は確かに、みんなに愛されていますね。紫陽花が生き生きとうれしそうだから、この季節は雨が多くてもなんだかニコニコ過ごせます。
 そして、店内に入ったとき、今から自分で本を買うという喜び、高揚感が湧き上がってきました。大袈裟ですか。でも本当です。図書館の本もたくさんの人に親しまれてきた味わいがあっていいですけど、本屋さんの新しい本のパリッとした輝きには胸が躍ります。ああ、どうして世界は、本という「もの」を手放すことができたんでしょう。父の本を手に取ってみたかったな。母の心を掴んだという作品を。子どもの頃は、私もたくさん物語を読んだけれど、父の作品も含め大人向けの小説は、ほとんど読まずにきました。でも、ロータシアで本というものに触れて「この本でなら、文学を味わってみたい」という気持ちになりましたよ。なかなか時間が取れませんが、少しずつ読んでいこうと思いました。
 この前来たときは、店内のあちこちにチューリップが飾られていたのが、今日はいろんな色、いろんな種類の紫陽花が飾られていました。グレイヴィさんはお花が好きなんだな、お花と本って似合うな、でも花瓶が倒れないように気をつけないと本が濡れたら大変、なんて思いながら、お料理の本が置いてあるコーナーを探しました。
 グレイヴィさんは私を見つけると
「おや。クロード先生んとこの。今日はひとりかい?」
と声をかけてくれました。私が
「今日はお料理の本を探しに来たんです」
と言って、メモを見せると
「この本なら定番だから置いてるよ」
と言って、お料理の本の棚を教えてくれました。本はすぐに見つかりました。
 またグレイヴィさんのところへ戻って、
「古典文学っていうものを、私、ほとんど読んだことないんですが、読んでみたいんです」
と言うと、グレイヴィさんは古典文学の並んでいる棚へ私を連れて行って、
「さあて、初心者さんに、何をおすすめしようかな」
と言いました。私が
「グレイヴィさんがお好きな作家は誰なんですか?」
と訊くと、
「私はカミュが好きなんだよ」
と言って、その作家の作品を指しました。私は、先生の本の部屋でロータシアの神話に親しんでいたので、その中の「シーシュポスの神話」という作品に目が留まりました。私がその本を抜き出すと、グレイヴィさんは言いました。
「神話って書いてあるけど、神話の本じゃないんだよ。シーシュポスっていうのは、神々から罰として大岩を山頂に押し上げることを命じられた神話の主人公だけどね。シーシュポスが何度山の上に岩を押し上げても、岩はあまりの重さでまた転がり落ちてしまう。この本は、その神話を下敷きにした哲学の本だよ。少し難しいかもしれない」
グレイヴィさんが難しいというので一瞬迷いましたが、私が毎朝背中を預けている「大岩」という言葉に、なんだか親しみが湧いたし、この本に惹かれるものを感じました。
「今は難しいかもしれないけど、いつか読めるようになるのを目標に、この本を買ってみます。古典文学の本はモニカがたくさん持っているから、読みやすそうなものを選んで貸してもらうことにするわ」
 古典文学の棚の下の台に、本が何冊か平らに並べて置いてあって、その中に「森の生活」という本がありました。私が先生との生活を想って手に取ると、グレイヴィさんが
「それも小説ではないけど、名著だよ」
と教えてくれました。
「まだ本を探すなら、預かっていようか? 重いからね」
とグレイヴィさんが言ってくれたので、私はお料理の本と「シーシュポスの神話」をグレイヴィさんに預けて、お店の中を隈なく見てまわることにしました。
 とても贅沢な時間でした。素敵な暮らし方やファッションが紹介された雑誌を眺めるのも楽しかったし、庭作りの本を見ていたら、自分の庭がほしくなったりしました。精霊術の本も探してみましたが、ありませんでしたよ。先生が言っていたとおり、精霊術は基本しかなくて、術を行う本人の感じることがすべてだからでしょうか。
 いろいろな本を見ましたが、結局私は、先生を想わせた「森の生活」という本がとても気になって、古典文学の棚に戻り、その本をレジにいるグレイヴィさんのところへ持っていきました。
 無事お金を払い終えると、グレイヴィさんが
「クロード先生は、うちの一番のお客さまだからね、これはプレゼント」
と言って、お店のトートバッグに私が買った3冊の本を入れてくれました。やっぱり私は、グレイヴィさんが本を扱う優しい手つきが好きです。

6月9日

 昨日、ブックショップから帰った私は、自分の本を所有したことでやる気が湧いてきて、みんなに「明日はこの本のレシピの中から私がランチを作ります!」と宣言しました。
 それで、今日は朝からモニカ、アナベル、トミーとマルシェへ行って、食材を調達してきました。メニューは、フロンドレギューム、ピーマンの肉詰め、そしてデザートには、ドライフルーツを使ったアーモンドケーキです。フロンドレギュームは、先生とよく作りましたからお手のものです。今日は、生地に卵と牛乳だけでなく、レシピ通りに生クリームも入れましたよ。ゴージャスでしょう? 使った野菜は、にんじん、マッシュルーム、ズッキーニです。耐熱皿に野菜を敷き詰めてシュレッドチーズを散らし、生地を流し込むだけで、あとはオーブンにお任せのこのお料理は、簡単にできて美味しいから、今後、私の定番料理にしようと思っています。それから、マルシェでとても立派なピーマンが手に入ったので、お肉を豪快に詰めました。肉だねには、玉ねぎとナツメグも入れました。これもレシピ通り。クロード先生のうちのオーブンは3段あるので、アーモンドケーキはフロンドレギュームと一緒に焼けました。

 食卓では、アナベルが、芸術大学の仲間たちとしてくれているコンサートの準備について、詳しく、とても楽しそうに話してくれました。私は、毎日心を込めて練習し続けてきた子どもたちの歌の完成度の高さ、ミアとクレアのとても小学生とは思えない高い芸術性について熱弁しました。私たちの話を聞いて、コンサートに行かれなくてあまりにも残念だと嘆くベルナールとモニカとトミーに、クロード先生が言いました。
「子どもたちだけでも130人いるんですからね。精霊たちは子どもが好きだからいいけれど、おとながたくさん集まったら、戻って来なくなっちゃうじゃないの。人間のためのコンサートじゃないのよ」
3人が気の毒でした。聴かせてあげたかったです。

6月10日

 スリーシスターズの日。今日は、エヴァにくっついて勉強しました。今日の献立は、夏野菜がたくさん採れはじめたので、ラタトゥイユとミートボールでした。ズッキーニ、ピーマン、ナス、トマトを収穫しましたよ。

 収穫の後のエヴァのお仕事は、鶏たちのお世話です。学校では、50羽ほどの鶏を飼っていますが、給食用の卵のためだけではありません。子どもたちが観察したり、触れ合ったりするためでもあるんです。150人分の給食をまかなうには少ないので、足りない分はその都度、ジェシーが養鶏家さんに注文します。
 まずは、鶏舎を掃除するために鶏たちを外へ出します。鶏舎の周りには、鶏たちが自由に歩き回って草をついばんだり、土の中の虫を食べたりできる広場があるんです。鶏たちを外へ出したら、スコップを使ってフンを三輪の荷車に載せ、畑の肥料にするたい肥が積んである所まで運んでいきました。それから、水入れの水を取り替えて、草刈り作業で刈った草や野菜を与えます。鶏たちの朝ごはんは草や野菜、夕ごはんはとうもろこしや小麦なんですって。鶏たちの今日の野菜は、獲り逃して大きくなり過ぎたズッキーニでした。30センチほどもあるズッキーニ10本を刻みながら、エヴァに鶏の飼育についていろいろ教えてもらいました。
 エヴァから教わったことの中で、とても心に残ることがありました。鶏たちの数を一定に保つためにしていることです。鶏が卵をたくさん産むのは3歳くらいまでで、鶏の寿命は5年から10年なのだそうです。つまり、鶏たちに天寿を全うさせてあげようとすると、卵を産まない鶏だらけになってしまうんです。だから毎年春、ここで4年間を過ごした鶏たちはお肉屋さんへ、そして、その数だけ新しいひよこたちがやってくる。エヴァは言いました。
「勝手だよね。でも、私は鶏肉が大好きだし、菜食主義者にはなれない。そして、ひよこのときから大事に育ててきた鶏たちを、自分の手で殺すこともできない。だから、お肉屋さんに頼んでるの。アルノーさんが引き取りに来てくれて、鶏たちはお肉になってここへ帰ってくる」
 私も鶏肉が大好きです。先週は、丸鶏のローストチキンを食べました。私はあのとき、これが生きていた鶏だと考えたろうか、と振り返りましたが、よく思い出せませんでした。思い出せないのは、生きていた鶏だと意識し感謝して食べなかったからだ、と思います。私にローストチキンを買ってきてくれたモニカとクロード先生に感謝したことは覚えています。エヴァはこう続けました。
「こう考えることにしてるの。鶏たちも虫やカエルを食べる。そういうことなんだって。それとは違うって、わかってる。それでも、そう思うことにしてるの」
 私はエヴァの言葉を聞きながら、一緒にポトフを作ったときに見た、鶏肉を切るエヴァの真剣な表情を思い出していました。

 ラタトゥイユは、まさに素材のおいしさを堪能するお料理と言えますね。調味料は塩だけ。シャインウッドの夏の定番料理でもありました。ジェシーが、美味しいミートボールのコツを教えてくれました。まず、ひき肉に塩を加えた時点でよくよく混ぜること。そのあとで、炒めたにんにくと玉ねぎ、牛乳でふやかしたパン粉、胡椒を加えます。これで、中がしっとりジューシーになります。そしてね、オーブンで焼いた後、フライパンで焦げ目をつけると、カリッカリに仕上がるんです。

 今日の女子トークのテーマは「もうすぐコンサート!」でした。3人ともコンサートをとっても楽しみにしてくれています。ジュリアは、お孫さんたちが小さかった頃、毎年、クロスポンドの森に蛍を見に行っていたそうです。
「きっと、素敵なコンサートになるわね」
ジュリアはそう言ってくれました。







 



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