自己肯定感、 『高める』ってなに?違和感の正体
自己肯定感って私の中でも課題でした。
もともと、自信がなくて、もやもやするようなことも多くありました。
周りには自信があってキラキラしている人も多くいて、「素敵だなあ」なんて思うけどなかなか自分も真似ができず、そんな自分にまた自己嫌悪みたいな。
ずっと自己肯定感を高めるために自分を褒めて褒めて、なでなでしながら
どうやったら、自信が持てるかなあって試行錯誤をしていました。
少しづつ、自信が持てるようになってきて、自己肯定感を高めるということについて、改めて考えたとき、どう伝えたら良いのかなと考え始め…。
そんな中、最近自己肯定感について話している人の話を聞いていたとき、ふと「自己肯定感を高める」という表現に違和感を感じ始めました。
屁理屈なのかもしれないんですけど、もし自己肯定感に関してどうして良いのかわからないという方のヒントになったら良いなあなんて思って書いてみようと思います。
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私もずっと、「自己肯定感を高めたい!」「高めるために…」
なんて考えていました。
ですが、ふと思った違和感。
その正体が「高める」という部分に関してでした。
私の勝手なイメージなんですけど、高めるって、今低いところから高いところにいくみたいなイメージありませんか?
つまり、「自己肯定感を高めるぞ!」
って、「自己肯定感、今は低いぞ!」
って言ってるのと同じだよなあって思ったんです。
わかるんですよ!高めるっていう表現が悪いわけでもなく、私もずっとその表現を使ってましたし、言いたいことはわかるんです。
だけど、自己肯定感って結局、
自己肯定する気持ちが「あるか、ないか」だよなって思うんです。
もちろん、何でも自分のこと許してて、自信ある人を見て、良いなあって思うこともあります。
人によってその度合いが異なるというのも分かります。
ただ、その差も個性なわけで…
個人差があっても良いんじゃ無いですか??
「自分、自己肯定感低いなあ」って思う人も、どこかしら自分を認めて自分の好きなことがあって、、ってなると思います。
「自分のことぜーんぶ嫌い!」か、
「自分のこと好きなところもあるよ」か
「自分のことぜーんぶ好き!」か、、。
そこのグラデーションも個性だよねって話な訳で…。
てなると、自分が少しでも好きなら、それで良いんじゃ無いかなって。
十分じゃないのと思うんです。
ちなみに、「自分は嫌いな所がいっぱい」ていう人は、つまり好きなところもあるよってことだと思うんです。
「ぜーんぶ嫌い」ってしてないだけ、希望を見てあげたいよねって思います。
そして、少しでも好きなところがあるなら、そこを全力で褒めてあげる。
「私、こんな良いところあって、こんなとこすごいよねえ」って。
それで好きなところが嫌いなところを凌駕できるような大きさになっていったらそれは十分過ぎるほど、自己肯定感あるよなって思うんです。
もし、まだ嫌いなところの方が大きいとしても、小さな好きを大切に育ててあげればそれで良いんだと思います。
自己肯定感っていうと、「私まだ自分の嫌いなところあるな」って思ったときに、「まだまだ、自己肯定感低いなあ」みたいに思っちゃうこともあるなあって。
でも、少しでも好きなところがあるなら、それで十分じゃないかなぁって思うんです。
あなたも自己肯定感、あるってことですよ。
最近そんな風に考え方を変えたら、楽になりました。
もし、自己肯定感で悩んでいるのなら…
そんな考え方もあるよっていうお話でした。
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