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「悩んだ時間が原動力に」谷保恵美さん(1987年卒)

第19回目は、1987年に札幌大学女子短期大学部経営管理専攻(当時)を卒業され、株式会社千葉ロッテマリーンズにて33シーズンにわたり場内アナウンス業務を担当された谷保恵美さんに、大学時代の思い出や千葉ロッテマリーンズでのお仕事についてインタビューしました。

札幌大学について


学生時代のこと

Q:どんな学生でしたか?とくに心に残っていることなどがあれば教えてください。

授業のない時は円山球場に行き、高校野球や大学野球、社会人野球など、あらゆる野球を観戦していました。野球部のマネージャーをしていたので、大学と同じくらい円山球場にも通っていましたね。

野球との出会いは子供の頃。父がいつもテレビの野球中継を見ていたので、私も当たり前のようにナイター中継や高校野球を見る生活を送っていました。高校では3年間野球部のマネージャーとして過ごし、グラウンドを駆けずり回っていました。高校時代のマネージャーの先輩が東京の大学で野球部のマネージャーをされていて、「札幌でもやっているはずだよ」と教えてくれて、札大野球部のリーグ戦を見に行きました。一度は「人数が足りているから」と断られたのですが、監督が他のマネージャーさんとも相談して下さり、入れていただけることになりました。

札幌大学野球部のマネージャーとして

▲サツダイ生だった頃の谷保さん。野球部のマネージャーとして全国大会へ(提供:札幌大学野球部)

マネージャーの仕事は、グラウンドでの練習補助の仕事のほか、道具や部費の管理、選手の成績の記録、さらにリーグ戦では運営スタッフとしてチケット販売や医務室での仕事など多岐に渡りました。スタンドでファウルボールを回収したりもしていました。インターネットがない時代でしたので、円山球場に「今どっちが勝っていますか」という問い合わせの電話が入り、それに応える電話当番もマネージャーの仕事でした。リーグ戦では、他大学のマネージャーの方々と交代で仕事を担当しました。自然と交流が生まれ、今でも付き合いが続いています。退職して時間ができて今年久しぶりに会えました。

場内アナウンスという仕事にチャレンジしたのも大学時代でした。リーグ戦で初めてアナウンスを担当した時、札大野球部初代の監督であられた奥村博先生(当時は野球部副部長)に「上手だよ」と褒めていただいたことが嬉しくて。「またやりたい」という気持ちになりました。

私が短大2年の時、札大野球部がリーグ戦を勝ち抜いて全国大会出場となり、神宮球場に一緒に連れて行ってもらいました。神宮球場でも勝ち進み、強豪の明治大学に勝利したことは今でも鮮明に覚えています。惜しくも準決勝で敗れましたが、ベスト4という結果を残し、大盛り上がりしてみんなで帰って来ました。

キャリアについて

Q:大学を卒業されてから現在までのご経歴や、マリーンズ時代の仕事について教えてください。

1990年2月に、千葉ロッテマリーンズの前身であるロッテオリオンズに入社したのですが、大学を卒業してから3年ほど経っていました。卒業してすぐ「この仕事だ」と思って目指したのではなく、アルバイトをしたり、実家の仕事を手伝ったりしながら「私はこの先どんな仕事をしていけば良いのか」と悩んだ時期がありました。

そんな中で、社会人野球の大会や当時男子校だった北海高校の場内アナウンスに呼んでいただく機会があり、「これが仕事になったら良いな」と漠然と思うようになって。とは言え、球団の仕事はたくさんあるものではありません。いろいろと考えた末、球団事務所に片っ端から電話をかけて「こういう仕事の募集はありませんか」と直接問い合わせてみるという行動に出たのです。すんなり決まるわけはなく、「今は募集ないよ」と何度も断られました。それでもめげずにかけ続けていると、ロッテが「履歴書送って良いですよ」と。「この仕事をやりたい」という熱意を言葉に込めて一生懸命書きましたね。たまたま経理職員の方が退職されたタイミングでした。私は大学で経営管理を専攻しており、そのおかげもあって採用していただいたのかなと思います。経理部に配属され、その後営業やスタジアム管理、広報などさまざまな仕事を経験させていただきました。

入社時に希望を伝えていましたので、入社2年目にアナウンスの欠員が出た時にすぐテストを受け、2軍の試合から担当させていただくことに。経理職との兼務でしたので、朝は球場に行き、デイゲームを担当して、その後事務所に戻って経理の仕事をして、というのが1~2年続きました。当時2軍の球場は埼玉県浦和市にあり、事務所は東京の新宿。徒歩も含めると1時間くらいかけて行き来していました。若かったのでやりきっていましたね。

千葉ロッテマリーンズに変わってからは本社も千葉に移転しましたので、さすがに行き来するのは難しくなり、試合のある日は浦和、事務仕事の日は千葉というスタイルになりました。

場内アナウンスという仕事の魅力

小さい頃はテレビの野球中継を見ながらアナウンスの真似ごとをするなど、惹かれるところがあったのだと思います。野球に携わることができる女性の仕事(数少ない仕事の一つ!)として魅力を感じていました。試合の進行に関わっているという実感や臨場感もこの仕事の醍醐味です。

大学で場内アナウンスの仕事を経験させていただいたことは力になりましたが、やはりプロ野球の試合では雰囲気もやり方も違います。最低限のことは先輩から教えてもらい、あとは仕事後に東京ドームや神宮球場に足を運び、他球場、他球団の試合を見ながらアナウンスを聞いてメモを取り勉強しました。「このタイミングでアナウンスを入れるとスムーズだな」「お客さんに対してこんな注意喚起をすると親切だな」と学ぶことが多かったです。そこで感じたことを次に自分が担当する試合でも生かしてみて、徐々に自分なりのやり方というのが定まってきました。

私が仕事を始めた頃は、野球の音と場内アナウンスの音しかないようなプロ野球でしたので、自分で原稿を作って、試合を見ながら自分のタイミングでどんどん必要なアナウンスを入れていくというやり方でした。しかし、時代と共に音楽や映像の演出もされるようになり、今は多くの方々と一緒に試合進行、球場演出を作り上げていく形になりました。

33シーズンの場内アナウンスを担当されて

▲谷保さんがアナウンスを担当したのは通算2100試合!

たくさんアナウンスしてきましたので、言い間違いも一つや二つではすみません。ただ、選手の名前だけは間違えないようにと気を付けていました。ホームチームを応援する気持ちがとても強く、アナウンスにも力が入りました。球団職員の方、とくに同じ部屋で仕事をしていたスコアボード担当の方には、「勝った時と負けた時で『試合終了でございます』の声のトーンが違い過ぎる(笑)」とよく言われていました。ある時、ロッテが逆転ホームランを打ち、私もすごく喜んでいたのですが、その弾みに自分のマイクの線を抜いてしまったことがありました。自分では気づいていないので、その後もパクパク喋っているのに、球場内は無音という状態がしばらく続いて。外から「出てないぞ」と指摘されて初めて異変に気付いたというようなこともありました。

▲2023年に33年間勤められた千葉ロッテマリーンズを退職されました。

長く勤めましたので、やはり時代と共に社会は変わりますし、会社での仕事の仕方も変化します。入社した頃は私の他に場内アナウンスの仕事を兼務されている職員の方が複数名いらっしゃり(実際私を入れて3名)、ローテーションを組んで担当していました。しかし、入社後5~6年が経った頃からはアナウンスは外部委託するというのが主流になってきて、ロッテでもアナウンスを兼任する職員は私一人、1軍の試合は自分一人で担当することになりました。自分が担当する試合は絶対に休めないので責任感がぐんと大きくなり、それまで以上に体調管理も気にするようになりました。「大変だな」と思う時はもちろんありましたが、そういう時は球団に必死に電話をかけていた自分を思い出したり、地元の友達に連絡したりして「みんなも頑張っている、自分も頑張ろう」とやる気を奮い立たせていましたね。

札幌大学の後輩に向けたメッセージ

Q:札幌大学の後輩や同窓生に向けてメッセージをお願いします。

私の場合、この仕事を「やりたいな」と思うまでの期間が長かったのですが、今思い返すとそうやって悩んだ分、より強く「挑戦してみよう」という気持ちになりましたし、目標に向かうための原動力になったように思います。学生時代にやりたいことや将来進みたい方向性が決まればもちろん素晴らしいことですが、そうではない方も焦らずじっくり考える時間を持ってみて下さい。私のように時間がかかっても見つかる可能性は十分あります。

仕事を長く続けようと思った時、それが本当に好きなことであるとか、自分の得意なことであるということは重要なポイントです。自分の将来を想像して夢を膨らませ、時には悩んだり苦しんだりすることも大切な時間です。ぜひ今しか出来ないことにチャレンジして有意義な大学生活を過ごしてください。

「わたしと藻嶺」について

「わたしと藻嶺」は、卒業生の皆さんが大学時代の思い出を共有し、それぞれの卒業後の活躍を応援する場です。さまざまな分野で活躍するサツダイOB・OGの皆さん、ぜひ取材させていただけないでしょうか?取材にご協力いただける方、また卒業生をご紹介していただける方は、札幌大学企画部入試・広報課までご連絡ください。本メディアに関するご質問やご意見、ご要望などもお寄せください。

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