わかりにくいことをわかりにくいまま提示する勇気
前から気になっていた、このプログラム。
友人たちが参加するというので、私も申し込んでみました。
ダイアログ・イン・サイレンス。
(以下、ネタバレあります。)
音の無い世界で、耳の聞こえないガイドの方と身振りや手振りで対話をする1時間。とても貴重な体験だったし、行ってよかったなと思いながらも。こういったプログラムの難しさも感じました。
いくつか気づいたことをメモします。
まず、ノンバーバルなコミュニケーションは、頭で想像していたよりもずっと時間がかかるものでした。そして「推し量る」「想像する」といった、能力が必要とされるのでとんでもない集中力がいる。実際に相手が伝えたかったことを、本当に自分が理解したかどうかも(その逆も)、かなりあやしい。
ひょっとしたら、普段私たちは、あまりにもたくさんのことを伝えようとしすぎているんじゃないか。急いで伝えようとしすぎているんじゃないか。そんなことを感じることができて、その「引き伸ばされた時間体験」というのは、とても面白いものでした。
一方で、想像していたよりもずっと、わかりやすいパッケージの、ある種エンタメ化されたプログラムにまとまっていた、と感じました。
とくに、ヘッドセットを外して、音のある世界に戻ってきてから、みんなで感想を話し合う時間は、自分がこの1時間で気づいたとてもささやかななにかを、言葉にすることでこぼれ落としてしまう気がした。(今、このブログで、感じたことを言語化しようとしていることとの矛盾を感じながら書いているのだけれど)
わかりにくいことを、わかりにくいまま受け止めてもらおう。受け止めるほどいかなくてもいい。せめて浴びてもらおう、といった態度で誰かに何かを発信するのは、とても勇気がいります。これは本を書いている時もそうなのだけれど、どうしても、解説したり結論を導いたりしたくなってしまうから。
でも。
一朝一夕にはわかりえないことを、わかりやすく道筋をつけて提示することによって、失うものもある、と思います。
自分がもし、このプログラムを作る人だったとしたら、どんな内容にするかな・・・そんなことを考えながら、帰ってきました。
と、書きながらふと思ったのだけれど、
でもそんなふうに私自身が、「言葉を使った対話」の時間を疎ましく感じたこと自体、ひょっとしたら、静寂の1時間があったからかもしれない。
とも、思ったのでした。
やっぱり私も、あまり安直に結論づけない方がいいのかも。
もう少し考えてみよう。
現場からは以上です。原稿戻ります。
んでは、また。
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