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余命宣告と、ひとつの質問

「ライターになって一番良かったと思ったのはいつでしたか?」と、聞かれたことがある。
これに関しては明確に答えられるのだけれど、2019年9月11日、です。その日、私は札幌のがんセンターにいた。

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母から、「お父さんがスキルス胃がんになった」という電話がかかってきた。
父は「まだ、ゆみには言うな」と言ったらしいけれど、来週詳しい検査結果が出て今後の方針を相談するから、その場に立ち会ってほしいと母は言う。一も二もなく、私は北海道に飛んだ。

札幌のがんセンターは両親の地元ではない。抗がん剤治療が始まるなら、地元の通いやすい病院に転院するつもりだと、二人は言う。
ただ、その言い方にちょっと気になるところがあったので、私は「病院の先生と、何かあったの?」と聞いた。

すると、前回病名の告知をされる直前、診察室から「こんな忙しい時間に新患の診察なんか入れるなよ!」と、担当の医師が看護師を叱っている声が聞こえてしまったのだと言う。
自分の命がかかっている告知の前に、そんな言葉を聞いてしまった両親は、先生に不信感を抱いたのだろう。この先生に命を預けたくないと思ったその気持ちは、よくわかった。

翌日、両親と私と弟の4人は、診察室に入った。その医師は、CTの写真をみながら病気について詳しく説明をしてくれる。
検査の前には、スキルスが転移して手術ができないと思っていたけれど、わずかながら、希望がもてる所見だった。どうでしょう。抗がん剤治療をして、手術を目指しませんか。先生は、父にそう尋ねた。

後ろで話を聞いていた私は、その先生が両親から聞いたような、無慈悲な医者には見えないように感じた。これはもう、ただの直感だ。もう少し、この先生の話を聞いてみたい。そう思った。

そこで、その先生が「抗がん剤治療の点滴のために、ポートを埋め込みたい。これは東京などでは一般的な処置ではないけれど、患者さんの血管を守るためにぜひおすすめしたい」と話をしているときに、思い切って質問をしてみることにした。

「あのぅ〜」

インタビュー最中、相手が話しているのを遮って質問をするとき、いつも私はゆーっくり手をあげる。
それまで父に向かって説明をしていた先生は「なんでしょう?」と私に視線を合わせてきた。

私は、
「そのポートの埋め込みですが、先生ご自身が父と同じ病気だったら、そうされますか?」
と尋ねた。

すると先生は、「もちろんです」と即答した。
そして、そもそもこの処置は、自分が数年前に脳の病で生死をさまよったときに、連日の点滴で血管がボロボロになったのがあまりに辛かったので、この方法を勧めるようになったのだと話す。

私よりも少し歳上くらいに見えたその先生が、命に関わる病気をしていたなんて思わなかったので、びっくりした。そして、どんな病気だったのか、何日ぐらい入院していたのかと、父の話は横に置いて、つい先生の話を深堀りしてしまった。

先生は、数年前の自分の大病を詳しく話をしてくれた。

脳の数字を司る分野に障害が出たため、時計が読めなくなったこと、
このまま医者を辞めなくてはいけないかもしれないと思ったこと、
医者が病気で仕事をやめても失業保険は出ないこと、
そして、家族への負担を考えて絶望的になったと話をしてくれた。

そして、ひとしきり話をしてくれたあとに、父に向かって、
「質問はありませんか? なんでも聞いてください。先日は、診察と診察の間でちゃんと時間を取れなくて申し訳なかったです。今日はこのあともう患者さんはいませんから、時間は気にせずなんでも聞いてください」
と話してくれた。

どうやら先週のあの看護師さんとの会話は、「大事な告知なのに、どうしてこんな隙間時間に入れたんだ」と叱ったようだった。
私たちは、父が得た病の特質について、今後父に起こりうる事態について、ゆっくりと話を聞くことができた。そこには、何も治療をしなかった場合の余命の話も含まれていた。

最後に、「地元の病院に転院されますか?」と聞かれたとき、父は迷わず「いえ、こちらで先生のお世話になっていいですか」と答えていた。


それから、父と先生との、半年の付き合いが始まる。

父はその先生のもとで、闘病を続けた。どんなに調子が悪くても、先生が病室にくると、にっこり笑って話をする。
車椅子で廊下を移動しているときも、向こうに先生の姿が見えたら、急いで駆け寄る。先生も、足を止めて父に話しかけてくれる。

最後、意識がもうろうとしてきたときも、先生が枕元にきてくれたときは、にーっこりと笑った。母も「あんな嬉しそうな顔を見たのは久しぶり」と嬉しそうだった。

もう、何の処置もできないとわかったとき、本来であれば緩和病院に転院しなくてはいけなかったのに、先生は「最期まで、僕が診ます」と言って、そのまま父を病室に置いてくれた。

父が深夜に息を引き取ったとき。
先生はもう家に帰っていたし、別に当直の先生もいたけれど、看護師さんから連絡を受け取った先生は、死亡を確認するために、わざわざ病院まで戻ってきてくれました。だから、父の死亡時間は、日付をまたいで、1日遅れになっている。2020年の2月2日だったはずが、2月3日に。

母は、もうちょっと早かったらゾロ目で覚えやすかったのにねえ、と泣きながら冗談を言った。でも、父はゾロ目を逃しても、先生に最期まで付き添ってもらえて嬉しかったと思う。


あの日、あの診察室で、先生のことを、もっと知りたいと思って良かった。
あのとき、手を挙げてよかった。もしそうしなければ、きっと父の闘病生活は全然違ったものになっただろう。 

私が、21年のライター人生の中で、この仕事をやっていて、本当に良かったと思った日だった。

#エッセイ部門


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