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メタ認知はもうやめる。来年食えてなくても、悔いはない

先日、家に若いライターさんが遊びにきた。

私を含め、多くの業界関係者が彼女のことをライター業界の宝だと思っている。ものすごく精度の高い原稿を書かれる誠実なライターさんだ。
ちょうど、ひとまわり歳下なのだけれど、ときどき会っては「書くこと」や「書いて生きていくこと」について意見を交換しあっている。

その彼女にこんなことを聞かれた。

「さとゆみさんは、自分の強みは何だと考えていますか?」
たとえば、インタビューとか、構成とか、コミュニケーションとか、……と、彼女は続ける。

どうしてそれが知りたいのかと聞くと、自分自身がライターとして、今後どの方向性で勝負していくかを考えているからだという。
彼女の師匠はこれまたどえらい方で、その方と同じ道を歩いても、きっと超えることはできない気がする、とも言う。

その言葉を聞いて思った。そうだ、私も彼女くらいの歳のとき、それを真剣に考えていた。
自分の手元にあるカードの、どれとどれを組み合わせれば最強になるのか。ポーカーで言えば、どのカードを捨て、次のカードを狙いにいくか。とくに私は、それをかなり戦略的に考えてライターを続けてきたように思う。

それでいうと、私の手持ちの能力のうち、一番強いカードは「メタ認知能力」だったと思う。

この集団の中で自分はどれくらいの立ち位置にいるのか。
何番目くらいまでにポジションどりしておけば、仕事が途切れないのか。
どれくらいの精度の原稿でアップすれば、リピートにつながるのか。
そういったことを、そうとう冷静に俯瞰して見ていた。

これはおそらく、スポーツを通してデータ分析力と戦略構築力を鍛えられたからだと思う。
自分の力量を上にも下にも見積もらない。
人との実力差をきちんと見極める。
自分に期待しすぎないし、謙虚にもなりすぎない。
人と自分の仕事を一切の感情抜きで評価する。
その態度で俯瞰してみたら、ライターという職業を続けていくことは、いくつかの工夫をすれば、そこまで難しくないように思えた。

これはいろんな場所で話すことだけれど、
ライターという仕事は、誰かと争って仕事を奪いとるような職業ではないと、私は思っている。
なぜなら、書き手を必要としている仕事のほうが、書ける人の人数よりも圧倒的に多いからだ。

たとえば、書籍だけでも、1日200冊の新刊が出ている。そのうち半分にライターが入っていたとしても、年間のべ3万6000人の書籍ライターが必要な計算になる。年に10冊書けるスーパーライターだけで構成されたとしても、3600人のライターが必要になる。だとしたら、3600人目までにランクインしていれば、十分仕事がくるはずだ、と考える。

3600人の中に食い込むために必要なのは、必ずしも、筆力だけとは限らない。
スピードでも、感じの良さでも、度胸の良さでも、ある分野の専門性でも。ひょっとしたら若さや安さでもいいかもしれない。健康で小回りがきくならそれでもよいだろう。
一番になる必要は、ぜんぜん、ない。

雑誌のライターをしていた頃、気をつけていたのは、ブレイクしないこと、だった。
旬の人と言われないように、なるべく目立たないように気配を消していた。
流行ると、廃る。
あの人ちょっと古いよね、と言わるのはみな、大ブレイクした人たちばかりだった。だから、とにかく、ブレイクしないように気をつけてきた。

こういうところにばかり、頭が回る。
だから、たいした筆力も能力もないのに、20年もライターをやってこられたんだろうと思う。

たいした筆力も能力もない、といま書いたけれど、これは謙遜ではなくて、かなり正確にメタ認知して、そう、思っている。
前にも書いたけれど、わたしより上手いライターさんは、めちゃくちゃたくさんいる。

でも、書いて生きていくのに大事なのは、上手いことだけじゃない。

すごくすごく真剣に、死ぬまで書いて生きていきたいと思ってきたから、わたしはプライドなんて邪魔なものを持ったことないし、
よく、原稿をdisられたとき辛くないですか?と聞かれるけれど、disられたくらいで書くのを辞められるならもうとっくに辞めている。

そう。
メタ認知ができることの一番の強みであり弱みであるのは、自分の才能の無さ、ということを、自分が一番よくわかってしまうことにあると思う
才能がないのに、しがみつこうとしているから、しがみつくための戦略を考えるのだ。

これはもう、私の人生においても決定的な瞬間だったし、その瞬間の空気の流れやら湿度やらカチャカチャとなっていたお皿の音、彼自身と周囲のあれこれが混ざって生まれていたにおいまでくっきり覚えているのだけれど
わたしは私が人生で最も尊敬して最も愛したクリエイターさんに、
「お前は、自分に才能がないことがわかってしまうくらいには、頭がいいんだよなあ」と、ため息をつかれたことがある。
心から尊敬して、心から愛していた人に言われる、このたぐいの言葉は、呪いだ。
その呪いを自分なりになんとか"やわし"ながら20年生きてきた。
そう、わかってる。わかってるから、才能がなくても生き残れる方法を考えてきたんだ。

と、ここまでのことがね

その若いライターさんに質問されたときに、頭をめぐったことだった。
たぶん、ものの数秒の間に、頭をめぐった。

どうして数秒でこれくらいのことを思い浮かべることができたかというと、ここまでは私が20年のライター生活で死ぬほど繰り返し繰り返し考え尽くしてきたことだからだ。

と、それで終わりであれば、それで終わりの話なんだけど

でも、

この時、数秒でここまで考えた後、思ったことは結構真逆のことで


もう、メタ認知はやめた、

だった。

上手いとか下手とか、もうどうでもよくて、戦略とかどうでもよくて、このレベルにならなきゃこういった発言できないとか、私レベルの書き手がこんなことを言うなんてとかもう全部全部

どっか、いけ

と、今、思ってる

メタ認知、死ね


いま、わたしは、書きたいことがいろいろあって、吐きたくて仕方ない。

20年のライター人生の中で、「自分のほう」にこんなに書きたいことがあることなんて経験は、初めてだ。
いや違うな。今までもあったのかもしれない。だけど、私レベルの書き手が自分の名前で偉そうに何かを語ることを(ブログならともかくお金をもらいながら)やれるはずがない、みたいに思ってたんだよな。そういうことをやっていいのは、才能がある人たちだけだと思ってた。

伝えたいことがあり、それにめちゃくちゃ価値があり、そういう人たちの言葉を「伝える仕事=ライター」が、私には向いていると思ってた。
才能ある人たちが世の中にたくさんいるのに、私自身が何かを発信する必要はない、というか、それに価値はないって思ってきた。

でも、

価値があるとかないとかもうどうでもいい

上手いとか下手とかもうどうでもいい

そうやってグダグタやってるうちに人は死ぬし、どうせ死ぬなら、上手かろうが下手かろうがもうだいたい些事だろ?

メタ認知、死ね


10年後もライターをやっているためにとか、70歳になってもライターを続けられるためにとか、いろいろ考えていたけれど、10年後のことを考えるあまりに、今書きたいことを書かなかったら、なにのためのライターだ?

と、いま思ってる。
わたしは、彼女ほど若くない。
こんなふうに情熱を持って書ける時間も、それほど残されていないだろう。

いまは、来年の仕事がなくなってもいいと思ってる。
来年の仕事がなくなってもいいから、とりあえず、今のこの自分の書きたい気持ちに従おうと思ってる。

2021年のために2020年を出し惜しむような生き方はもう、したくない。

なんですかね、近々わたし、死ぬんですかね笑

とまあ、そんな感じで、たぎっている最近でした。

折しも、昨日うちに遊びに来てくださった大好きな編集者さんが
「さとゆみさん、最近、書籍ライターとして、ものすごく仕事頼みにくい感じになってきてますね」と進言してくれた。

そうだと、思う。
ライター養成講座で教え
自分の名前でコラムやエッセイ書いて
著作もあって
ポッドキャストまではじめましてん。
こんな「裏方」、目立ちすぎて使いにくくて仕方ないだろう、そう思う。しかもそれほど上手くない。これまでそう思われることを一番恐れてきたし、気をつけてきた。

だけど、もう、そういうことも、考えるのやめた。
近々、死ぬと思ったら、優先順位も変わる。

全部やる、
つべこべ言わずやる
やれること全部やる
それで及ばなくても、やらないよりいい。

人生は、短い


あ、そうなんです。最近ね、ポッドキャスト始めたんですよ。
少しだけ昔のわたしが、いや、なにお前ごときが、わかったふうに話してるんだよって、突っ込んでくる。

メタ認知、死ね、
ってとなえながら、毎晩収録してます。
よかったら、遊びに来てください。

Spotify、Apple、Google、Amazonのポッドキャストでも聴けます。「深夜のラブレター」で検索してください。

連載も増えてるんです。
こちらも。よかったら読んでください。


どちらも、おすすめはこちらにおいておきました。


なんかふわっといい感じのぼやけた世界に生きるのはもうヤダ。

殴られるならボッコボコにされて血の味まで舐め尽くしたいし、愛でられるならもうとろっとろに溶けて正体がなくなるまで沼に浸かりたい。痛みから快楽まで全部まるっと味わい尽くしたい。解像度の高い、ビビッドな世界に生きたい。
なんか、たぎってます笑。

来年、食えてなくても、悔いはない。

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