諸寄への旅
兵庫県諸寄(もろよせ)の水谷さんという方からお電話をいただいたのは、今年の5月ごろだったと思う。地元出身の社会教育者•篠原無然の没後百年のプレイベントで無然についての話をしてもらえないかということだった。
私は以前「和樂web」というサイトで確かに無然の記事を書いている。それを読まれたとのことだった。
嬉しかったと同時にビックリした。無然については以前奥飛騨の観光関連の仕事をした時に、彼が今でいう自然保護を訴え、大ネズコの木を今も地元の人たちが無然の教えと共に大切にしているというエピソードを知って感動し、いつか必ず企画を出し取材しようと思っており、それが実現した。しかし公開後は特に話題にも上らなかったため、私自身も殆ど忘れていた。無然自身が飛騨を除いては殆ど無名に近く、取り立てて研究している人もなく、唯一の評伝は飛騨出身の作家で故江夏美好さんが書かれた『雪の碑」のみで、地元の図書館にも古すぎて置かれておらず、私は記事を書くために県図書館まで借りに行った。版元の河出書房新社でも絶版になっているようだ。購入できないかと調べてみたが、「日本の古本屋」というサイトでは3万円ぐらいの値段がついていて、とても手が出せる状態ではなかった。
篠原無然は彼が社会教育者として活動していた飛騨高山以外では忘れ去られた人物だった。それが突如webに上がり、メディアでも取り上げられるようになったので、評伝の価値が上がったというわけなのだろう。友達はNHKの番組で知ったと言っていた。
最初は断ろうと思った。というのは大垣から諸寄までは大変遠く、昨年の苦い経験があったからだ。
それはやはり和樂webで書いた記事を元に本郷にあった菊富士ホテルについて話をしてくれと言われ、のこのこと東京の文京シビックまで出かけて行って話はしたが、これははっきり言って失敗に終わった。3回に分けて同じテーマで話すのは容易ではなく、一回ごとのテーマも絞りきれていなかった。心優しい受講生の皆さんに助けていただいたようなものだった。でも中にはかなり厳しい意見もあったことと思う。どちらにしてもこれまで書くことしかしてこなかった私には、話すことの難しさを思い知らされた出来事だった。
しかし、能天気な私は水谷さんと話しているうち、だんだん諸寄に行く気になっていった。というのは海辺に行けるということ。山と川しかない岐阜県に生まれ育った私にとって海は憧れだ。無然の原稿を書いてる時も諸寄に行ってみたいという気持ちになったこともある。第二に諸寄は北前船の寄港地だった。青い大海原を白い帆を風に孕ませ進んでいく帆船の姿が目に浮かんだ。今は見られないが、より一層海への憧れを掻き立てられた。しかも今度は一回きりなので、一度に自分の言いたいことを話して了えばいい。前回のようにテーマ配分に悩む必要はない。
殆どイマジネーションの中で私は諸寄行きを決めていた。
その後何度か水谷さんはじめ担当の方とやり取りをさせていただき、『篠原無然を知る会』の日は近づいていった。
ところが、予定の2週間前、私は胆石で入院する羽目に陥った。それまで何度もみぞおちから右上腹部にかけて痛みをおぼえたが、数時間我慢すると治り、あとはけろっとしていたので、胃が痛むのだろうと思っていた。しかし、この日は違った。一晩中、鈍い痛みが続き、果ては背中まで痛くなってきた。おなかが張っているような嫌な感じ。そのうち、脂汗が出て来たので救急車を呼ぼうかと思ったけれど、いなかあるあるで近所の手前、恥ずかしい。まんじりともせず、なんとか夜が明けるまで耐え忍び、かかりつけ医に行った。車で約40分の道のりだ。
上石津には診療所しかなく、実態は無医村に近い。どんなに近い医者でも車で約15分はかかる。徒歩圏内に医者はない。
おなかのいやな痛みは次第に治まって来たけれど、食欲はほとんどないし、なんとなく違和感がある。尿はまるで血の色をしていた。
血液検査の結果、肝臓の値がすごく高くなっていて計測不可能になっている。胆石だといわれ、紹介状を書くから市民病院にいきなさいと言われた。その日は土曜日だった。通常、市民病院は休みである。でも、行きなさいといわれた。まあ休日勤務の先生はいるだろうけれど・・
のんびりやの私はこの時点でもまだそんなに自分の状態が酷いとは思っていなかった。だがとにかくいったん家に戻り、息子に乗せてもらって市民病院に向かった。もろもろの検査の結果、総胆管結石といわれ、そのまま入院となった。さっそく点滴が始まる。この日から4日間、絶食となった。正直なところ、この時はもう痛みはほとんどなかったが、検査の値はよくなく、おまけに空腹が加わってもうふらふらだった。
4日目に口から胃カメラのぶっといのを入れて胆管から石を出す処置が行われた。ストレッチャーで手術室?に運ばれ、うつぶせに寝かせられて顔は横向き。口にマウスピースみたいなものをはめられ、「麻酔が効いてきたら始めますからね」と言われてその後のことはまったく覚えていない。
後で聞いた話だが、大汗をかいていたらしい。当日は主人が付き添いで来てくれていたが、私が意識を取り戻すと安心して帰っていった。去年は主人が手術して私と息子は終わるまで待っていたのだが、今年はその逆である。
その夜は絶食。次の日の昼から食事が始まった。おなかの痛みはまったくなく、それまでの違和感も消え、体はとても楽になっていた。しかし、先生の話ではまだ胆のうに石があるので、近い将来、胆のうをとらないといけないとのことだった。胆のうはとっても大丈夫な臓器らしい。ただ、胆汁が流れなくなるので消化が思うようにできず、油濃いものなどを食べ過ぎると下痢をしたりするようだ。しかし、なくても生きていける臓器なら、なぜ存在するのだろうか。人間の体とはほんとに不思議なものだ。
まあ、とにかく、この時の治療は無事終わって退院後の外来の予約をし、帰宅した。これがもう少し遅かったら、諸寄行はお断りしなければならなかったところだった。なにせプレゼン用の資料をつくりかけたところで入院してしまったので、準備が間に合わなかったからである。
さて、大慌てで資料を作り終え、やれやれと安心したところへ、先方から確認のメールをいただいた。「明日21日(土曜日)はよろしくお願いします」と書いてあったので、「あれ? 22日(日曜日)だったよね」と思い、「はい、日曜日でしたよね」と書いて返事をしたものの、不安になった。急いで案内の紙を見ると、なんと! 明日だった。間違えていたのは私の方だったのである💦
大慌てでお土産物を買いに行き、明日の準備を済ませて眠った。明朝は4時起きである。諸寄まで5時間半はかかるらしい。だいたいのルートを頭に入れ、あとはナビにお任せである。
9月に入り、夜が明けるのが次第に遅くなっていた。まだ暗いうちからごそごそ動き始め、家族がだれも起きて来ないうちに出発した。5時半だったからそんなにむちゃくちゃ早かったわけでもないのだが。
諸寄には午後2時半には来てほしいと言われていたので、かなり余裕はあるはずだった。だが、三連休の初日で途中何があるかわからない。渋滞に巻き込まれたらどうしよう。事故で通行止めになってることも考えられる。行ったこともない場所でしかも遠距離であることをかんがえるとどうしても悲観的になってしまうのは否めない。
私は日本海側の風景が好きだ。やや寂し気だが景観も美しい。ただ京都の丹後半島や宮津の辺りまでは行ったことがあるのだが、それより西となるともはや未踏の地である。土地勘も全くない。ナビも時々変な道を教えてくれるので、全面的には信用できない。それでも途中休み休みしながら、諸寄のある新温泉町に着いたのは正午に近い時間だった。
新温泉・浜坂ICを下りるとすぐに「道の駅 浜坂の郷」があったので、おなかがすいてたまらなかった私はそこに駆け込んだ。山陰地方の名産はカニである。これは北陸のほうも同じだが・・解禁日にはほど遠く、今は梨の時期だった。なにせ兵庫県でも鳥取県との県境のまちである。後で聞いたら鳥取までは約30分だそうだ。
但馬牛に海産物の丼物など、実においしそうだ。だがけっきょく、お蕎麦にした。食欲は元に戻っているが、量は以前ほどは食べられない。それに今夜は地元の民宿に泊まらせていただくことになっていたが、夕食に海産物が出る可能性があったので、同じものはできるだけ食べたくなかった。
お蕎麦はおいしかった。従業員の方々も親切で人懐っこそうだった。どこから来たのか聞かれ、「岐阜からです」と答えるとたいへん珍しがられ、興味津々。新温泉町に来た理由を尋ねられたが、本当のことをいうと根掘り葉掘り質問攻めにあいそうだったので、適当に言葉を濁しておいた。
店内で土産物を見て、めざす諸寄に向かった。次第に日本海が近づいてくる。国道178号に沿って進み、坂を下りると右手に日本海。そして小さいが美しい砂浜と漁港が見えて来た。諸寄に着いたのである。自宅を出て約5時間。なんとかたどりつけた。安堵感と同時に達成感が込み上げる。
浜辺に降りてみたかったが、駐車場がないので、車に乗ったまま港をぐるりと回ってみた。中ほどに建つ建物では競りが行われているらしいが、当日はお休みだった。港の西側が漁港になっていて、海も深い。ここが北前船の停泊地になっていたようだ。ほんとに小さな漁港だが、廻船問屋などの建物も残っているらしい。
漁港の後ろは山になっていて、民家はその山の麓にぎゅっと集まっている。海から吹く風から身を守るようにお互いに肩寄合って暮らしている。そんな印象を受けた。おそらく無然のいた時代とその風景はそれほど大きく変わってはいないのかもしれなかった。
漁港を後にして浜辺に向かった。夏には海水浴客でにぎわうようだ。小さいが白い砂の美しい浜辺である。その昔、『枕草子』や『新古今和歌集』などに「雪の白浜」として詠まれているらしい。遠く都にまでその名は知られていたのだろう。
国道からそれてトンネルを通って隣の浜坂に行くルートをとった。ここからは海岸に降りる道がある。
何年振りかに見た海だった。今では白砂とは呼ぶべくもないが、砂粒はすごく細かいようで、車などが入って来なければさぞ美しいことだろう。沖から白い波が次々に打ち寄せる。シーズンオフの諸寄の浜は静かだった。
諸寄という名前にはすべてのものが打ち寄せ来たるというような意味があるらしい。良いものも悪いものもこの浜に打ち寄せ、浄化されていくのかもしれなかった。
やがて時間が迫って来たので、会場となる諸寄基幹集落センターに向かった。公民館のようなものであるらしい。ところが近くまでナビは案内してくれるのだが、それらしいものがない。近所を見回して目につくのは為世永神社というこの辺の氏神?さまの社らしきものである。ふと少し遠くを見ると学校らしき建物が目についた。よくわからないが、カンがそっちへ行けと言っている。そちらを目指して行ってみることにした。
何やら外に女性たちが立っている。ひょっとしてと思って行ってみると、はたして目指す集落センターの職員さんたちだった。私が遠方からくるのでわからないといけないと思い、外で待っていてくださったのだ。簡単にあいさつをして中に入った。すると、最初にお声をかけてくださった水谷さん始め、諸寄地区の方々が出迎えてくださり、応接室に通された。
よくよく話を聞いてみると、水谷さんは諸寄の財産区の区長さんだった。財産区というのは区が持っている財産(山林や施設など)を管理する責任者で、自治会長とはまたちがった役割である。
諸寄ではこれまで地区に関係のある四人の賢人を顕彰してこられた。なかでも明治の歌人で「明星」に投稿。石川啄木と並び称された前田純孝とともに篠原無然はよく知られているらしい。無然の生涯を紹介していると長くなってしまうので、こちらを読んでもらえるとうれしい。
明治のシンデレラボーイ? 人を愛し、人に愛された社会教育者・篠原無然
無然には弟さんがおられたが、この方の筆跡は奥飛騨の篠原無然記念館にも残されており、兄に似た伸びやかな字を書かれていたが、ここにも保管されていた。校長先生をやっておられたそうで、なかなか芸達者な人らしかったが、諸寄には無然の縁者はすでにだれもいなかった。
嬉しかったのは私の記事がとてもわかりやすく、親しみやすかったと言ってもらえたことだった。水谷区長たちはすでに自分たちで無然の冊子を出しておられたし、そこには私の知らない無然の写真もいっぱいあった。私はとても興味深く読ませていただいたが、内容がかたくて一般に伝えるには難しいと思っていたところ、和楽の記事に出会われたのだという。
当時の和樂webの編集長の編集方針は日本文化の間口を広げ、敷居を低くして親しみやすいものにしようということだったと思う。だから記事のジャンルは古典から現代まで幅広く、グルメあり、格闘技もありだった。私みたいなちょっと外れたものでも受け入れてもらえたのはそのためだと思うし、一番大事なことは、日本文化を一部の人々の専有物にしてはいけないということではなかっただろうか。だとすれば、水谷区長のお言葉を聞いている限りではこのねらいはまさに当たったことになる。記事を書いたのは私だけれど、編集権はあくまで編集部にあり、編集者と編集長の手が加わって多くの人に読んでもらえる記事になっていった。タイトルをつけたのは編集長である。web記事にはつきもののSEO対策などもしていただいたうえで公開され、検索エンジンにもひっかかりやすくなっていたことも幸いしたのだろう。
そんなことを考えているうち、時間になった。会場に入ると、50人ほどの地元の方がおられた。ほとんどが男性である。わざわざ岐阜から来たというフリーライターに興味をもたれたのかどうかは知らないが、動員もかかったのだろう。
今回は1回きりの講演だ。だから今日、すべて話してしまえばいい。私が無然について話すことは、無然は最期は遠く離れた岐阜県の平湯で亡くなったが、間違いなく、諸寄で生まれたこと。父親も社会事業に熱心で身上をつぶすほどだったのだから、子どもながらに無然もその影響を知らず知らずの間に受けていたであろうこと。後の社会教育者としての無然をつくった元は故郷の諸寄にあること。そして、もう一つは明治から大正の初めにかけて富国強兵策で突き進む日本で置き去りにされていった底辺の人々に目を向けて、それが社会問題であるととらえた無然には先見の明が備わっていたことであった。
私は時系列で無然の生涯を追いながら、これらをポイントに話をした。実は退院後一生懸命話すためにつくった資料を、見事自宅に忘れて来た。こうなったら仕方がない。記憶をたどりながら、時につっかえながら、できるだけわかりやすさを心がけ、私はしゃべった。
それぞれの参加者がどの程度、無然に興味・関心を寄せておられるのか不明だが、私は一人一人の目を見て話して行った。中にはうんうんとうなずきながら聞いてくださる方もあって心強かった。
終わった時は約1時間半が経っていた。とりあえず、今日話したいと思っていたことはすべて話し終えて、私は壇上から降りた。役目は終わった。どれだけ聴衆のつかみに役立ったかはわからないが、反応はまんざらでもなかったような気がする。
1人、無然の恋愛について質問をされた方があったが、これには答えようがなかった。とにかく無然は禁欲的な人物で女性に対する性欲なども精神を鍛えることで抑え込もうとしていたようだ。
ただ唯一、記事にも今回も書かなかったことがある。それは無然が飛騨を出たいきさつに関係している。工女たちを深く思いやり、青年たちを指導する彼を快く思わなかった人間たちもいたということは述べたが、彼らは無然の教え子であった一人の工女が入水自殺したことを無然と結びつけ、排斥しようとしたのである。このあたりのいきさつは唯一の評伝である『雪の碑』にも書かれている。
1998年に出された情報誌「岐阜を考える」に道下淳さんという方もこれについて書かれているが、この方は元岐阜新聞の記者で、私の高校時代の恩師の親戚だったらしい。わかりやすくて、良いコラムだと思う。道下さんのお母さんは篠原無然の薫陶を受けられた方だった。
『雪の碑』の篠原無然
無然の弟子として一番有名なのは村山鶴吉さんという方だが、この方の子孫はまだご存命で平湯でお土産物屋さんを営んでおられる。村山さんも無然のようにたとえ自分が非難されても口答えせず、黙された。非難されたり、悪口をいわれるのは自分の不徳のいたすところなので、自分が改めることが大切と思っておられたようだ。自分が口を開けばまたそれでよけいに傷つく人もいる。悪意というのは底なし沼のようで、いったんそれにからめとられてしまった人はそれから抜け出すことはできない。負のスパイラルだ。
無然の教えは平湯の篠原無然記念館に収められている。いつかだれかがこれらの資料をきちんと研究されて無然の業績が明らかにされることを祈りたい。諸寄の人たちもそれを待っておられることと思う。
水谷区長には、諸寄で一番景観の良い城山園地に連れて行っていただいた。ここからは諸寄地区とその浜、日本海のすべてが見渡せる。
「昭和のはじめ、諸寄には久邇宮多嘉王殿下とそのご家族が避暑に来られました。隣の浜坂から3分という短時間なのに諸寄に山陰線の駅ができたのは、宮様が来られたからです。この園地から眺める夕日はすばらしいです」
水谷区長の目には眼前の風景だけでなく、「枕草子」や「新古今和歌集」にも詠まれたという古の諸寄の浜が見えていたのではないだろうか。
11月には無然没後100年を記念し、平湯から講演に来られるようだ。また平湯でも同様の記念行事が行われ、高山市の元教育長が講演され、パネルディスカッションと無然のつくった「飛騨青年の叫び」の合唱が行われる。
篠原無然没後100年記念行事
諸寄と飛騨。二つの地域が過去の歴史によって結ばれる。その橋渡しのお手伝いができたことは私の宝物だし、記事を掲載させていただいた媒体にも感謝している。
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