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【6分ショートショート】アート

 男は胸元の道具入れから、ホワイトマーカーを取りだした。
 宇宙服のぽってりした指先で器用につまんで、キャップを外す。
 マーカー本体もキャップも、紐で宇宙服に繋がれていたが、男は外したキャップを道具入れに仕舞い、慎重に蓋を閉じた。
 マーカーを右手に持ち替え、左手で丸窓の脇にある把手を握って、直径十五センチほどのガラス窓をのぞき込む。
 周囲の構造物は真空の太陽光に曝されて眩しく輝いていたが、男は太陽を背にしていたので、窓の奥を窺うのは容易だった。
 小さいガラス窓の向こうは通路だった。狭い窓だが、かろうじて床と天井が見てとれる。
 静止軌道ステーションはどこも無重力状態なので、本来なら上下の区別はないはずだが、居住区画には床と天井が設定されていた。床と天井があるということは、上と下が区別されているということだ。
 男は右手のマーカーを、ガラスの下側の端に押しつけた。
 インクが毛細管現象で吸いだされ、硬い繊維状のペン先をじわりと濡らして、ガラスの表面に点をつけた。マーカーのインクは白いはずだが、ガラス面に残された点は明るい通路を背景に黒く見える。
 男はもう一度ガラス面の点にペン先を押しあてると、そこから一気にマーカーを走らせた。カラス面には、若干左に傾いた見慣れない文字が残された。
 男はすぐに撤収を始めた。動作はゆっくりだが、迷いはみられない。
 外したキャップを締め、マーカーを道具入れに戻す。
 丸窓の脇の手摺りを外し、腰のベルトに結びつける。
 命綱とそれを掛けてある外壁のアンカーポイントを確認してから、足場を外して折りたたみ、これも腰のベルトに結びつける。
 最後に、腰のベルトに巻きとってある別の命綱を外壁のガイドワイヤーに掛け、アンカーポイントから命綱を外すと、周囲を指差し確認してから、のそりとその場をあとにした。
 男が取り付いていた場所は、静止軌道ステーションのなかでも古い区画だった。大小のモジュールやノードが複雑に入り組んだ、路地裏のような一角だった。そこからエアロックまでは、煩雑な経路をたどらなければならなかった。
 男は要所要所で命綱を掛け替えながら、迷路のような道を淡々と戻っていった。
 ようやくエアロックにたどり着き、時間のかかる与圧過程を経てステーション内に戻ると、宇宙服や冷却下着などをロッカーに収め、その足でさっきまで外から取り付いていた丸窓のある通路へと向かう。
 男が向かっている古い区画は、モジュールごとに床も天井もてんでばらばらだった。増設に増設を重ねたためらしいが、そのせいで、モジュールやノードを通り抜けようとすると、目眩を感じたり床や天井に激突したりした。
 だが古い区画は、男の活動拠点だった。
 男は慣れた調子でモジュールを渡っていき、つぎつぎに現れるノードの分岐を迷いなく進んで、外壁をたどったときの十分の一ほどの時間で例の通路に到着した。
 小さな丸窓は、通路の端の壁面にひっそりと設置されていた。窓の外には漆黒の闇が広がるだけで、通路の明かりで星も見えない。
 古い区画では、窓には必ず合理的な目的があった。窓には気密漏れや放射線被曝のリスクがある。窓はなんとなく設置するものではなかった。
 だが、この窓の用途はまったくわからなかった。設置された向きから考えて地球を眺めるのが目的でないのは明らかだったが、この大きさでは天体観測用という訳でもなさそうだった。モジュールが設置された時点では窓の外に視認が必要な何かがあったのかもしれないし、たまたま窓付きの中古のモジュールをどこかから運んできただけなのかもしれない。理由はどうあれ、人通りのない通路にある真っ暗なだけの小窓は、いつしか忘れられた存在になっていた。
 男は、足を床に、頭を天井に向けた姿勢で、窓に近づいていく。
 小さな円形ガラスの向こうは、宇宙だった。
 宇宙の下側には、白い文字で日付と署名、そして「深淵」と記されていた。
 男は窓拭きアーティストだった。
 静止軌道ステーションにある小さな窓を磨きあげることが、男のアートだった。
 観光客向けの展望窓のほうが稼ぎはよかったが、興味がなかった。
 古い区画を探索し、誰からも見向きもされない忘れられた窓を見つけては、その窓の存在意義を再構築することが、男の表現だった。一点の曇りもなく磨きあげた小窓にこそ、宇宙を感じた。宇宙と人間の接点を求めて、真空に身を曝しながら窓を磨きつづけていた。
 だが、代償も大きかった。
 男は大きな事故を経験していた。
 はじめに左眼の視力を失い、つぎに心臓を悪くした。酸欠事故による後遺症と、減圧事故による動脈ガス塞栓症だった。地球の法律に則った雇用契約に基づく作業員であれば、もはや真空中での作業は認められないほどの体調だった。
 それでも男は、窓拭きをやめなかった。
 外側から磨きあげた窓を内側から見る瞬間が、たまらなく好きだった。宇宙と直接つながる感覚が、忘れられなかった。
 目のまわりを両手を覆うようにして、窓の外を覗く。
 男はようやく、わずかに頬を緩めた。
 ポケットから布を取りだし、もう一度ガラスを丁寧に拭きあげると、ふわりとその場をあとにした。
 一仕事終えたあとは、行きつけの店で一杯やるのが男の習慣だった。
 見慣れた顔が並ぶ、気が置けない店だった。
 店に入ると、店主がカウンターの奥から、
「よお、また新作かい?」
 と声をかけながらドリンクバッグを差しだした。
 男には金がなかったが、店主はいつも気前よく酒を出してくれた。
「で、今度はどこだい」
 店主は決まって窓の場所を尋ね、そして毎回、
「そんなとこに窓なんかあったか」
 と、まわりの客たちと一緒に首を捻った。そんなやりとりを、男は楽しみにしていた。
 男が、この店に窓があれば磨いてやったのに、というと、店主は、
「こんな場末の店にそんな贅沢品があるわけないだろ」
 と豪快に笑った。
 二杯目のドリンクバッグに口をつけたとき、男は身体に異変を感じた。胸が苦しい。吐き気がする。
 この店にトイレはなかった。外に出てしばらく行ったところにある公衆トイレを使う慣習になっていた。
 ふらつきながらトイレに入ると、薄汚れた鏡に映ったくたびれた顔と目が合った。
 男は息を飲んだ。
 そこには、これまで存在に気付かなかった、小さな窓があった。時間と空間を越えた宇宙との接点が、そこにあった。
 男は震える手で、ポケットから布を取りだした。

 青い顔でトイレに行くといったきり、いつまでも戻ってこない男を心配した店主が公衆トイレに来てみると、布とホワイトマーカーが漂い、意識のない男が手足を屈める格好で浮かんでいるのを見つけた。洗面台の薄汚れた鏡には瞳のほどの大きさに丸く磨かれた跡があり、その下には日付と署名、そして「内宇宙」と白い文字で記されていた。

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