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【3分ショートショート】最後

 何事につけ最後というのはおぼつかない。人類初や史上初の出来事なら、それがいつどこで誰によってなされたことかを知るのはさほど難しいことではないだろう。ライト兄弟による初の動力飛行の例をあげるまでもなく、たとえそれが世間の耳目をひくことのない出来事だったとしても、それを成した当人や取り巻きたちによって記され、後世に伝えられるものだ。だが最後の出来事となると、途端に怪しくなる。たとえば人生と同じように、ずっとつづいていた事柄が、ある日突然、意図せず最後になることだってある。この場合、当事者たちが最後になるとは認識していないため、明示的にこれが最後だと記録されることはない。それでも、リストをたどれば末尾にあるのが直近の出来事だと確認することはできようが、それをもって直ちにそれが最後だと判断するわけにはいかない事情もある。ある出来事が最後であることを示そうとすると、いわゆる「悪魔の証明」と同様の困難を伴うからだ。これから先、未来永劫、永遠にその出来事が起こることはなく、本当に、絶対、確実にそれが最後だなどと、どうして断言することができよう。何度も解散コンサートを繰り返すバンドだって珍しいものではないだろう。だから――。
「このロケットが本当に最後になるかなんて、誰にもわからんのだよ」
 そう語る老人の頭頂で、薄くなった白髪がひよひよと風になびいている。快晴微風、非の打ち所がない打ち上げ日和だ。だがまだ年若い孫は、晴れとは程遠い心持ちで老人の車椅子を押していた。
「そうはいうけどねじいちゃん、実質これで終わりだよ。打ち上げロケットはもう、経済的に成り立たなくなっちゃったんだから」
 老人は、ふんっ、と鼻を鳴らした。「わかっとらんな」と、吐きすてるようにいう。
 観覧席へとつづく人混みの中、孫は流れにあわせてじりじりと歩を進めながらつぎの言葉を待ったが、いつまで待っても発せられない。痺れを切らして「なにが?」と尋ねると、老人はもったいつけたように孫に訊いた。
「ロケットはなにで飛ぶか知ってるか」
「莫迦にしないでよ、そのくらい知ってるよ。燃料と酸化剤でしょ」
 老人はゆっくりと頭を振った。そして「これを見てわからんか」と、周囲の人集りを見回す。
「ロケットはな、夢で飛ぶんだ」
「……はあ」
 たしかにここには大勢が押しかけてはいるが、それはこれが最後の打ち上げだからで、野次馬が話の種にと集まっただけだろう。ロケットに夢があったのはもう過去の話だ。宇宙エレベーターが運用をはじめて、宇宙は日常になった。宇宙飛行士だってもはや憧れの職業ではなく、いまや非情で不快で危険な作業を強いられる肉体労働者に過ぎない。
「いいか」老人がつづける。「見る者の心を揺りうごかし、人々に勇気と感動を与える、それがロケットの打ち上げだ。そんな力が、宇宙エレベーターなんぞにあるか」
 孫は心の中で、いまどきちょっと宇宙に出かけるくらいでいちいち感動する人なんていないよ、とうそぶいたが、口に出しては「人によるんじゃない」とだけいった。
 車椅子用の観覧席は、視線を遮るもののない最前列に用意されていた。遙か遠くにではあるが、起立するロケットがよく見える。機体からかすかに白い靄がたなびいている様子を目にして、孫は息を呑んだ。
「燃えてる……」
 老人は、全生涯を否定されでもしたかのように、大仰に溜め息をついた。
「あれは煙ではない、雲だ。蒸発した液体酸素をタンクから放出すると、まわりの空気が冷やされて水蒸気が凝縮し、雲になる」
 孫は「へえ」と感心したように相槌をうったものの、放出されているのは本当に酸素なのだろうか、と訝った。ロケットは成層圏を汚し、オゾン層に穴を穿ち、大気に微粒子をまき散らす。気候変動をもたらす環境破壊の元凶だ。宇宙に行く手段がロケットしかなかった時代ならやむを得なかったかもしれないが、いまとなっては道理が通らない。
 観覧席に流れるアナウンスが進行状況を刻々と伝えていく。老人はそのひとつひとつにうなずきながら「順調だな」とつぶやいた。「わかるの」と尋ねる孫に、「オリジナルの設計がよかったからな」と目を細める。
 カウントダウンが始まる――そして閃光、遅れて轟音と振動に包まれる。歓声とともに、周囲の木々から鳥が一斉に飛び立つ。
 ロケットは、一条の白い軌跡を残してあっという間に紺碧の空に吸いこまれていった。
 孫は、青天に漂うのたうつようなまがまがしい排煙に文句をつけようと口を開きかけたが、深く刻まれた目尻の皺から流れる一筋の涙を見て、唇をかたく結んだ。

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