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【3分ショートショート】トリック

「落とし穴、やってみたい」ミカちゃんがカウンターの向こうからいった。
 ぼくと神宮路は顔を見合わせ、互いにため息をついた。
 ここは「叶屋」、宇宙エレベーターの静止軌道ステーションにある、カウンター席だけのうらぶれた小料理屋だ。女将さんとミカちゃんで切り盛りしているが、この店がミカちゃんの趣味に過ぎないことは、ぼくらはとうに知っていた。正体は明かしてもらえないが、どうやら彼女はとんでもないセレブらしく、宇宙エレベーター界隈に顔が利く。本人によると生まれも育ちも静止軌道ステーションで、地球には一度も降りたことがないという。
「やられたぁ、ってのをやってみたいの」ぷるんぷるんと揺れる出し巻き卵の皿をカウンターに置きながら、ミカちゃんがおどける。
 叶屋の出し巻きは絶品である。たっぷりの出し汁が含まれていて、おそらく地表では自重で潰れてしまうだろう。このやわらかさが実現できるのは無重力状態ならでは、他では食べたことがない。黄色と白色の渦巻きをそおっと匙ですくいとり、慎重に口中に運ぶと、ああ、温かい卵焼きが舌と口蓋の間でなめらかに崩れ、まろやかなうまみと風味が口腔に広がる……なんという口福――。
「無理だよ」鼻づまりのような神宮路の声で、現実に引き戻される。「ここには重力がない。落とし穴には落下できない」
 この店には女将さんの料理目当てで通いだしたが、ミカちゃんにぼくらが理学系の研究者だとばれてからは、しばしばこういう無茶振りに遭っている。というか、火に飛びこむ虫みたいなもので、性分には逆らえない。
「いや」ぼくは、出し巻きが喉を通過していくのを堪能してから、おもむろに口を開いた。「落ちることじゃなくて、意図せず落ちるドッキリ感を味わうことが本質じゃないのか」
「うーん」ミカちゃんは指を頬に添わせ、首を傾げた。「ほんとは落ちてみたいけど、無理なら、ドッキリでもいいかな」
「だったら」神宮路がまるまっちい手で涙滴型の無重力猪口を振りあげた。酒がたぷんと飛びだす。「仮想現実はどうだ? たしかうちの施設に、没入型の装置があったろ」
 ミカちゃんがカウンターの奥から素早く手を伸ばし、おしぼりで酒のしずくを回収する。「つまんない。それじゃあ、ここに穴がありますって、予告してるようなもんじゃない」
「やっぱり、意表を突かれないと?」
「そういうものでしょ、落とし穴って」
「なるほど。だが」神宮路は猪口に残った酒をさもしくすすった。「静止軌道ステーション内でそれをやるのは、難しくないか」
「通路に強磁場を仕掛けとくのはどうだ?」ぼくは思いつくまま口にした。「急にブレーキがかかって、ドキッとするんじゃないか」
「ちょっと、ひとのことなんだと思ってるの」ミカちゃんが頬を膨らませた。「急に止まるような誘導電流なんか流れたら、身体が焼けちゃうじゃない」
「平気じゃないかな?」暗算でもしてるのか、神宮路が目を瞑ったままいった。「上昇しても、せいぜい数度ってとこだろ」
「もう酔っ払っちゃった?」ミカちゃんが神宮路の前の酒パックを取りあげて、ぐい、と差しだした。「その計算の体積って、全身よね。電流が流れるのは表面だけでしょ」
 神宮路は、てへへ、と猪口を差しあげて酒を満たしてもらいながら「でもなあ、瞬間的に運動エネルギーをどうにかしないと、びっくりはしないよなぁ」とこぼしたっきり黙りこくってしまい、この日はお開きになった。
 数日後、ミカちゃんから買い物につきあって欲しいと呼びだされた。いそいそと指示されたショッピングモールにやってくると、ミカちゃんはなぜか神宮路と待っていた。
「遅かったな」神宮路が芝居がかった声でいった。時間通りだろ、と反論するが「待たせるのは罪だ。償え」と尊大な態度で断じる。
「ソフトクリームが食べたい」示しあわせたみたいに、ミカちゃんが猫なで声を出す。
 ぼくは釈然としないまま、ソフトクリームを三つ買ってきた。二人に渡してから無重力ベンチに腰掛けて、コーンを口元に近づけた瞬間――。
 ドシン!
 突然、周囲が揺れた。ガクンと身体が振れて、鼻先にバニラクリームが付着する。
「うわあ! びっくりしたぁ……」
「いえーい」「大成功!」二人は空中に浮かんだまま、子供のようにはしゃいでいる。
 ミカちゃんがペロリと舌を出した。
「落とし穴って、楽しいね」
 その夜のニュースで、原因不明の事故が報じられた。静止軌道ステーション中の姿勢制御スラスターが、なぜか突然一斉に噴射されたらしい。予告なしの瞬間的な加速によって、死者こそ出なかったものの、けが人多数、施設や設備の損害も甚大だという。

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