沼ると沼らせるの本質

「他人を沼らせたい」と欲したとき、自分がそいつに沼っている。

どうでもいい他人・興味のない他人に、人は自分の時間を少しも割きたくない。沼らせようとすることはない。

時間を割いている時点で、やはりほんのり好きなのだ(金品強奪などなんらかの裏の目的があるパターンもあるかもしれないが)

「自分に依存させたい」と、相手を自分のファンにしようとする。いつも自分の自己肯定感を上げてくれる存在で、自分はモテているんだと感じさせてくれるような存在。男も女も相手を侍らせたいのだ。女は比較的隠していることが多いが。

しかしいつの日かそういう沼っている存在が、自ら離れていくときがやってくる。

いつもの通りに沼らせのテクニックを使おうとするがうまくいかない。すべての技が見切られている状態となる。沼らせがうまくいかない。沼ってもらえない。

沼るにしても、沼らせるにしても、実はこれが恋なのだろう。

物語ではピュアな純愛がキラキラしているから、恋愛とはそういうものだという感覚があるが、現実はそんな綺麗にラッピングされたものではなく、地を這いヘドロにまみれた人間の汚い欲望ではないだろうか。

「沼らせたい」という所有欲・支配欲・承認欲求。自分の要求通りに相手を動かそうとする強欲だ。

駆け引きはそうした欲望の攻防ではないだろうか。

片想いという状態は、「沼らせたい」が薄まった状態であるかもしれない。「沼らせる」と言えるほどに相手をコントロールできなくて、ほとんど思い通りにならないから片想いと言われるのだろう。

一方で「沼る」とは、相手の思い通りになってしまっている状況である。しかし、人間は自分の思惑通り都合よく動いている沼っている相手を自ら切ることはできない。

切るときは、相手が自分を支配しよう(沼らせよう)と企図して自分の自由を脅かそうとしてきたとき(自分が相手につけている「値段」を超えた「法外な要求」を相手がしてきたとき【結婚要求・恋人要求・デート要求・愛の言葉の要求・スマホの中を見せてもらう要求、セックス要求、通話要求、奢り/割り勘要求、など】)、あるいはより高次元の存在を所有できたときではないだろうか。

そして逆に、沼っている側は、自分が相手に沼ることで、相手を沼らせている。

沼らせている相手の所有欲と支配欲と承認欲求を進んで満たす。

沼らせている側は「この人をもっと沼らせたい」「この人に本気で自分を愛させて壊してしまいたい」「なんてかわいくて尊い存在なんだろう」「もっとコントロールできるようにしたい」と考えて、どんどんのめりこんでいく。より愛されたくて。

徐々に「その沼っている相手がいること」が当たり前になっていく。空気のようになっていく。いることが当然の存在。いなくなるなどということは考えもしないような存在だ。利益が生じるのがなぜかを考えなくてもいいような存在。自分のインフラであり、自らの自己肯定感の基盤だ。

だから失ってから気付くのだろう。「なんという大切なものを壊してしまったのだろうか」と。相手を沼らせていたのではなくて、実は自分が沼っていたのだった。幸せの青い鳥かもしれない。

もしかすると、自分の「沼らせたい」という利益ではなく、相手の「沼らせたい」という欲求に全力で応えて沼ってあげることが、逆に相手を沼らせる極意なのかもしれない。

そしてそういう自分の利益など一切考えず、他人を全霊魂を注いで幸せにしようとする行為が、自分のこともまた、幸せにするのかもしれない。

自分の全存在を懸けて死ぬ気で愛して振られることで、相手に深い爪痕を残せるのだろう。

むしろ全存在を懸けない方が、「あんなに愛してくれた人はいなかった」と心のしこりになって、何年何十年も経っても良い思い出となってしまうかもしれない。相手はもうそんなことは全く気にもせず忘れているのに。

先に沼ることで沼らせるというのをちょっと実践してみたい。

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