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文字と映像のはざま。

いつもの神田のスタバでキャラメルスチーマーを飲みながら、打ち合わせをした。隣には、0歳児を連れた夫婦。ベビーカーに座った赤ちゃんはお父さんの方を向けられていて、休日の育児は父親担当なのよという打ち出しなのか、それとも、お父さんが育児中心の夫婦なのか、そういうのイイなぁと憧れまじりに右目の端で観察をした。

目の前には、初対面の打ち合わせ相手が座る。概ね話終わると、「文章を書く仕事ということは、ずっと本が好きだったんですか?」とこれまで何十回? 何百回? きかれてきただろう質問が飛んできた。ライターをしていると高確率できかれる、この問い。

尋ねられる回数を重ねているわりには、この質問への模範解答を私は持ち合わせていない。
本は好き・嫌いの軸にはなくて。生活必需品みたいなものになっている。たとえば、「便座好き?」とか「ブラの肩紐好き?」みたいな話で、「うん、好きっていうか必要かな。まぁそれがなければ命が断たれるということはないけど」というたぶん相手が期待していないだろう返事になってしまう。

今回も、「まぁ、ええ、はい」みたいななんとも曖昧な回答をした。
目の前のその方は読書好きらしく、どうやら本の話がしたかったのだと椅子に座り直して話しはじめた仕草から気づいた。文芸サークルに入り読書会を開くほど小説が好き、なのだそうだ。

「でも、僕、風景描写が苦手でぜんぶすっとばして読むんですよね」

思いがけないことを言われた。途端に私のインタビュー癖が発動してしまう。

「どうしてですか? 登場人物への感情移入はできるんですか?」
「論理展開だけ追っていたいってことですか?」
「風景描写を読まないでどのように主人公が動いてるいるのが見えるんですか?」

突如前のめりになった私にポカンとしながら、丁寧に回答してくれた。
感情移入はしている、でも、小説を読んでも映像は見えてこないんだという。

「そうなんですか……」

いくぶん愕然としながら相づちを打った。目の前の方の話から、文字と映像を自動的に結びつけながら文章を読んでいる自分に気がついた。
小説を読むとその世界がドバドバ脳内で勝手につくられて、登場人物は自我を持って歩き出す。文章を書いているときも、そう。ライターとして説明的な文章を綴るのであれば別だが、だいたいは映像になっているものを言葉に置き換えている、だけ。(吟味の段階で言葉を足して、ハシゴをかけることはする。)
絵を想起せずに文字をどうやって読むのだろう? もしかして、そういう読み方をしている人はかなり多いの?

文字と映像の間にあるものとはなんなのか。謎が深まり、ついにnoteに書いてみた。

考え出すと止まることができない性格のため、”風景描写を読まない”という読書スタンスについてこねてみた。

例えば小説に、
夕暮れの住宅街。帰り道。近所の家から夕飯の支度をしている匂いがこぼれてくる。ほのかな暖色系の明かりに、ひとの営みを感じる情景が描かれていたとする。

こんな映像があったとき、主人公の気持ち次第で見えかたが大きく変わってくると思う。

誕生日の息子にプレゼントを買った日ならば、はやく喜ぶ顔が見たいと家路を急ぎ、近所の家の日常にも心がほころぶかもしれない。
一方で、孤独でうちひしがれながら道を歩いていたら、当たり前の生活光景に一層首を絞められるような感覚を抱くかもしれない。

そして、少なくない作家が「ウキウキして」とか「打ちひしがれながら」なんて表現せずに、主人公の心を反映した目で情景を描写して、感情を表現していると思う。

もしそれが、通用しないとなると……。
文章で伝えるというハードルの高さを改めて感じて、クラクラとする。同じものを読んでも、同じように伝わるとは限らない。そのハードルは、認識していたつもりだったけれど。もしかすると、作者の込めた情報の100分の1も伝わっていないものなのかもしれない。

そんなことを思いながら、今日もちりちりと言葉と自分の心の一致点を探る。読者により伝わりやすくなるイメージを選びながら。

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