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「死ぬ方がいいと御思いになりますか」 【夏目漱石 硝子戸の中より】

「死ぬ方がいいと御思いになりますか」?


作者(夏目漱石)のところへ、女性が訪問してきます。女性は悲痛な人生を漱石に告白したあと、このように問いかけます。

「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
 私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」 (硝子戸の中 七より)
 

女性は漱石に自分の人生を告白したあと「この女性は死ぬべきか、生きるべきか」と問いかけます。自分の人生を憂いている女性は、自殺さえ考えています。「その女性」という表現をしていますが、実際は「私は死ぬべきか」と漱石に問いかけるのです。

私はどちらにでも書けると答えて、暗に女の気色をうかがった。(硝子戸の中 七)

漱石は明確な答えを避けようとします。女性の悲痛な人生に同情しながらも、死をすすめることはしません。しかし「生きるべき」と断定もしないのです。

その日、遅い時間になったため、漱石は女性を送っていきます。女性は漱石と歩きながら「先生に送っていただくのは光栄だ」と、しきりに恐縮します。

次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。(硝子戸の中 七)

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女性の「それから」

「硝子戸の中」は、漱石の随筆です。つまり、この話は実話であり「女性」も存在します。「硝子戸の中」では、女性がどのような人生を選択したのかは書かれていません。しかし私たちは、漱石が女性に宛てて書いた手紙から、その先を知ることができます。

只今御手紙が参つてあなたはまだ東京に居られる事を知りましたさうして又教
師になつて生活されるという御決心を知りました私はそれを嬉しく思ひますどうぞ教師として永く生きて居て下さい 以上
夏目漱石から 吉永秀子宛ての手紙より(一部抜粋)

女性は教師として生きることを決めました。
漱石は「永く生きて居て下さい」と返信します。この手紙が残っているということは、女性はその後も「永く生きた」のでしょう。生きることが幸福かどうかは、わかりません。ただ、漱石と出会い選んだ人生は「とても豊か」だったと思うのです。きっと、そうだと思うのです。


(参考)「硝子戸の中」は、夏目漱石「最後の随筆」です。青空文庫さんで読むことができます。



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