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首の骨は誰が、何度折ったのか 坂崎かおる「私のつまと、私のはは」についての考察


はじめに

 坂崎かおるさんの短編集『噓つき姫』に収録されている「私のつまと、私のはは」の考察です。作品を読んでからこの記事を読むことをおススメします。

導入

初読時は「一人で世話するのに疲れた知由里が、ひよひよの首の骨を折りまくって、何度も初期化して上限に達したんだな」と思いました。

しかし、それなら二人が再会するまでに、ひよひよは大きくならない(成長しない)のではないか。

まず、作中の時系列を整理しておきます。

ひよひよが来てからはじめての〈集い〉は夏(「よく晴れた夏の日で」)。だからひよひよが来たのも夏頃。
知由里が去った季節は正確には分からないが、秋の〈集い〉にひよひよを連れて行った後。
→二人がひよひよを育てたのは長くても半年

植松氏の葬式は冬(「植松氏が亡くなった、という報せが届いた日は雪がちらついていた」)。
二人が再開するのは夏前(「また近いうちに夏がめぐってくることを予感させる風が吹く日だった」)。
→知由里が去って再会するまでの期間は半年から一年弱。(2、3年が過ぎているということはないはず)

だから、初期化の上限が元々かなり少ないのではないか。

「子育ては神聖」で「安易な初期化をお客様にはしていただきたくない」という植松氏のセリフから考えても、初期化が何度もできるとは思えない。

①初期化の上限は1回か2回

知由里が理子の元を去ってからすぐの時期に初期化している。その結果、初期化回数の上限に達する。その後は初期化をせずに(できずに)育て続ければ、再会時に成長しているのは整合性がとれる。

初期化をした理由
(1) 一人でひよひよの世話をするのに耐えられなくて。

この場合、一人でひよひよを育て続けている可能性と、新しいパートナーをつくり、一緒にひよひよを育ている可能性、のどちらもある。

どちらにしても、世話につかれて初期化をするというのは自然なようにみえて、少しだけ違和感がある。初期化をしてもひよひよの世話から逃げられるわけではない。初期化をしてからひよひよを返品したり(知由里は送り先を知っているのか?)、廃棄したりしないとひよひよの世話は終わらない。首の骨を折る時は必死で、初期化をしてから後悔しているのかもしれないけど。

(2) 理子の元から去った時には知由里には新しいパートナーがいた。新しいパートナーと一からひよひよを育てるために初期化した。

この場合、首の骨を折ったのは知由里なのか、パートナーなのか。

(3) 知由里の新しいパートナーも、ひよひよの世話に協力的でなかったので、知由里はストレスが溜まった。

でも、この場合は首の骨を折るのではなく、協力的でないパートナーから知由里がひよひよを連れて去る気がする。

(4) 事故で折れた

(5) 知由里はひよひよの首の骨を折りたかったから、折った

(6) デモ版を送る前に植松が折った。
「今回はデモンストレーションですし、初期化自体は必須の行為ではなさそうですので、あえて外してみてはいかがでしょうか」と理子は提案した。だから植松はもう初期化ができない状態にしたひよひよを二人に送った。電話の保留中に首の骨を折ったのかもしれない。

この場合、
(1) 知由里は初期化を試みたことがない。
(2) 知由里は初期化を試みて、上限回数に達していることを知った。
どちらの可能性もある。

しかし、(1) 知由里は初期化を試みたことがない場合、ドトールで理子が初期化を試みて「最大音量の警告音」が鳴った時に、知由里は慌てるのではないか。

もちろん「外に出ていった」ので警告音が聞こえていない可能性もあるが、「まわりの客がいぶかしげに理子を見」る音量なら、外にいても気づくような気がする。

②初期化の上限は0回

上の(6)の説の応用。植松が設定を変えて初期化できなくしたデモ版を送った。子どもを一歳になる前になくした経験がある植松なら、首の骨を折ってから送るよりは自然。
この場合も、知由里が初期化を試みたことがあるのかどうかはわからない。

余談だが、ひよひよをつくる会社は植松の個人企業なのではないか。子育て体験ロボットなら育児の楽しい面だけを機能にした方が売れるはずだ。「仕事から帰って、うちの子の寝顔見ると、もうそれだけで明日も頑張れる、みたいな」商品でいいだろう。植松が会社に属していたら、開発許可も出ない気がします。

③妄想説

実はひよひよは成長していない
→上限回数はそこそこあり、知由里は何度も首を折っている
 
「大きくなったんだよ」という知由里のセリフがあるので、この考察中でもひよひよが大きくなったと書いてしまったが、ひよひよは機械だから物理的には大きくならない。(「〈ひよひよ〉は成長を続けた。グラスの向こうで」「筐体の大きさが変わるわけではもちろんない」)

だから、ひよひよが大きくなった=成長した、というのは知由里の思い込み(妄想?嘘?)ではないか。

理子がARグラスをかけた時の描写もこの説の根拠になります。

理子がおそるおそるそれをかけると、大福は人間の顔になり、知由里の胸 の中で満足そうに瞳を閉じて、微かに笑みを浮かべている。それはあまりにも見慣れた光景で、なにもかもあのころと変わらないように見えた。

「見慣れた光景で、なにもかもあのころと変わらないように見えた」というのはひよひよのことだけを指しているのではないと思いますが、だけど理子から見てひよひよが成長はしていないのは確かです。もちろん、理子がひよひよの成長に気づいていない可能性もありますが。

改めて読み直すと、ひよひよが成長したと読める根拠は「大きくなったんだよ」という知由里のセリフしかない。

だから、ひよひよの初期化の上限回数はそこそこあって、何度も首の骨を折られて、実は成長していないという可能性はある。というか高い気がしてきました。

まとめ

僕としては
①上限回数は1、2回+(1) ひとりで世話するのに疲れて初期化した
または
③ひよひよが成長したというのは知由里の妄想で、首の骨は何度も折っている
この2つが自然な解釈だと思います。

だけど②上限は0回(植松が設定を変えた)で(1)知由里は初期化を試みたことがない、という読み方はおもしろいと勝手に思っている。後半の展開や「彼女の顔は昔のままだった」の意味が変わります。

屁理屈をこねながら作品を考察してきました。
でも、一番重要なのは、様々な解釈ができるはずなのに、知由里が一人でひよひよを育て、上限回数まで首の骨を何度も折ったという物語に、読者が誘導されるように仕組まれていることな気がします。そんな読み方をしたのは僕だけですか?

この考察についての意見やツッコミがあればコメントをよろしくお願いします。みなさんでこの素晴らしい作品をもっと深読みしましょう!

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英語を教えながら小説を書いています/第二回かめさま文学賞受賞/第5回私立古賀裕人文学賞🐸賞/第3回フルオブブックス文学賞エッセイ部門佳作