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つつじ

 義父は転勤族だったそうで、多香恵の夫の洋一は、小学校に通っているあいだだけでも、二度転校したのだと言っていた。
 「だから、俺、おさななじみとか、地元の友達とかいないんだよな。」
 それが洋一にはさびしいらしかった。
 それで、転勤のない会社に就職し、第一子が幼稚園に入るまでには持ち家を持ちたいのだと、洋一は結婚前から多香恵に話していた。
 多香恵にしても、引っ越しを何度もするのは大変だし、子どもが小さいうちにずっと住み続けられる家を持てることは望ましいと思っていたから、洋一と一緒に家探しをすることは、苦にならなかった。
 結婚当初は社宅に住んでいた多香恵と洋一だが、長女の美智恵が生まれてからは、家族のイメージがはっきりしてきて、より具体的に家の情報を集めるようになった。
 家族で何度も住宅展示場へ出かけたり、インターネットでいろいろな項目を検索して比較したり、幼稚園や小学校や中学校の評判なども調べたりして、ようやく理想に近いと思える家を購入したときには、美智恵が満三歳になっていた。
 幼稚園も、美智恵に合うだろうと思えるところに決めることができ、そのときには、第二子が多香恵のお腹にいた。
 それからは本当に目まぐるしく、引っ越しの準備をしながら、美智恵の入園準備をした。そして新居に引っ越して間もなく美智恵の入園式を迎え、その二か月後に、多香恵は第二子を出産した。
 大変な数か月だったが、実家の母や洋一の母親がかわるがわる手伝いに来てくれて、何とか乗り切ることができたのだった。
 第二子も女の子で、多香恵と洋一は、佐智恵と名付けた。
 洋一と、幼い美智恵と佐智恵と、最初はままごとのように見えた新居での生活も、すぐに現実の色を帯び、だんだんとしっかりしたものになってきたと多香恵には思えた。育児と家事に追われながらも、多香恵は充実していた。
 やがて、美智恵は年中組に進級した。
 
 「ねえ、お庭につつじの花を植えようよ。」 
 ある日、美智恵が言い出した。
 家の庭に、最初に植えたのは、パンジーとビオラだった。
 去年の晩秋、多香恵は佐智恵を抱っこ紐で抱き、美智恵の手をひいて、苗を買いに行き、美智恵と一緒に庭に植えた。
 美智恵の通う幼稚園では、各クラスに花の名前がつけられていて、年少組だったそのときのクラス名は、「すみれぐみ」だった。
 「パンジーもビオラもすみれなんだよ。みっちゃんの、すみれぐみのすみれだよ。」
 そう言いながら、パンジーを二株、ビオラを三株植えたのだった。
 そして、年中組の今年のクラス名は、「つつじぐみ」だった。
 「去年はすみれぐみだったからすみれを植えたでしょう。今年はつつじぐみだから、つつじを植えようよ。」
 無邪気に美智恵はねだった。
 園芸店に行けば、つつじの苗は売っているだろう。それほど高価でもないだろう。
 だが多香恵には、庭につつじを植えることを躊躇する気持ちがあった。

 子どものころ、多香恵の家族は祖父母と同居していた。父方の祖父、祖母、父、母、多香恵、二歳下の弟の六人で暮らしていた。
 しかし、祖父母、特に祖父と母の折り合いはあまり良くなかった。
 頑固で偏屈な祖父と気位の高い母の、その関係は子どもの多香恵からみても、はらはらすることがよくあった。
 その祖父が、特に好んで庭に植えていたのがつつじだった。何本ものつつじの木が庭にはあり、毎年、家の二階の自室からつつじの花をよく眺めていた。
 多香恵が小学校四年生の年の初夏、同じクラスの文代ちゃんが家に遊びに来た。
 文代ちゃんは、庭の満開のつつじの花を見て、
 「わあ、つつじがいっぱい。」
と、感嘆した。そして、いいことを教えてあげる、というふうに多香恵に言った。
 「ねえ、知ってる? つつじの蜜って、甘いんだよ。」
 そう言って、つつじを一輪つまんでその花びらを萼からはずし、その元を唇にあて、ちゅっと吸った。
 「多香恵ちゃんもやってみなよ。」
 すすめられて、多香恵も文代がしたように、つつじの花を吸ってみた。
 あわくはかない甘さは、多香恵にははじめての経験だった。
 文代と多香恵は顔を見合わせて、ふふふっと笑って、また一輪、つつじの花をつまんで蜜を吸った。自分の家の庭の花だから、と、多香恵には悪いことをしているという感覚はなかった。
 だが、その時頭上から怒鳴り声が降ってきた。
 「こらあっ! おまえたち、何をやってるんだ! 花を毟るんじゃない!!」
 二階の窓から、祖父が身を乗り出すようにして怒っていた。
 びっくりして文代と多香恵は一瞬硬直した。
 「ばかものどもが!!」
 なおも祖父は大声で怒鳴り続けた。
 その剣幕に、文代は泣き出しそうになった。
 「ごめんなさい。多香恵ちゃん、ごめんね、ごめんね。あたし、帰る。」
 そう一気に言って、文代は走って帰っていった。
 多香恵は何も言えなかった。
 文代が走り去った後も、祖父は、多香恵に対してひとしきり怒鳴り続けた。
 その後で、祖父は、今度は多香恵の母を呼びつけて、おまえのしつけが悪いから、多香恵があんなろくでなしに育ったんだ、おまえのせいだ、と、ひどく𠮟りつけていた。
 そしてその後、多香恵は母に激しく詰られた。
 「どうしておじいちゃんのつつじをむしったりしたの! だいたい花の蜜を舐めるだなんてはしたない。不潔だわ。そんなことを言い出すような子と付き合っちゃだめ。あんたのせいで、お母さんまでおじいちゃんに怒られたのよ。もうおじいちゃんの庭の花に触ったりしないでよ!」
 その後、文代が多香恵の家に遊びに来ることはなかった。
 文代以外の友だちも、多香恵が家に誘うことはなかった。
 いつも不機嫌だった祖父を、多香恵はそれまで以上に避けるようになった。祖父の機嫌を損ねて、家庭に波風をたてたくなかった。
 つつじの花は、多香恵の子ども時代の、つらい思い出の象徴だった。

 だがしかし、美智恵はつつじの木をほしがった。
 「みっちゃん、つつじぐみさんだもん。つつじのお花がおうちのお庭にもあったらいいなあ。」
 「ようちえんのお庭にも、つつじがいっぱい咲いてるの。おうちのお庭も、あんなふうになったらいいなあ。」
 「つつじのお花にはね、ちょうちょうさんもたくさん遊びに来るんだよ。みっちゃんのおうちのお庭にも、ちょうちょうさんにたくさん来てほしいなあ。」
 ことあるごとに、美智恵はつつじの話題を持ち出した。
 「そんなに美智恵が欲しがるなら、つつじを植えてやればいいじゃないか。」
 洋一も、深く考えるふうでもなく、そう言って美智恵に味方した。
 多香恵は、自分のなかのつつじの思い出を、洋一に話したことはなかった。かなしい思い出を、洋一に知られたくないような気がしていた。

 だが、おもちゃや菓子などの、ほかのほしいものを我慢してでもつつじをほしがる美智恵についに根負けして、多香恵はとうとうつつじの苗を買うことにした。理由も言わずに拒み続けるのは、美智恵がかわいそうだとも思ったのだった。それで、また佐智恵を抱っこ紐で抱き、美智恵を連れて園芸店に行った。
 庭木におすすめの低木として、つつじの苗は売られていた。すでに花の時期は終わっていたが、植え付けは今頃らしかった。
 意を決して、多香恵は店員にたずねた。
 「あの、このつつじ、花は何色ですか?」
 店員は答えた。
 「ピンクです。」
 「ピンクって、濃いピンクですか? 薄いピンクですか?」
 「薄いピンクです。」
 祖父が愛でていたのは、濃いピンク、まさに躑躅色のつつじの花だった。
薄いピンクというなら、桃色か撫子色だろうか。
 花の色が違うなら、違う花と思えばいい。多香恵はそう思うことにして、つつじを庭に植えることを自分に納得させたのだった。
 「薄いピンクの花が咲くのなら、このつつじの木を買いましょうか。」
 とうとう多香恵は、そのつつじの苗を買って庭に植えた。
 当然のこと、美智恵は大喜びだった。

 だが翌年の晩春、庭に咲いたのは、濃いピンク色の、祖父が愛でていたのと同じ色の花だった。あの店員は、間違えたのだ。
 美智恵が、つつじが咲いた、つつじが咲いた、と喜ぶそばで、多香恵はどうしても祖父のことを思い出してしまっていた。つつじの蜜を吸って怒られたあの時のことだけでなく、ことあるごとに怒鳴りつけられていたいろいろな場面が思い起こされて、濃いピンクのつつじの花を見るのもつらかった。
つつじの花が咲いているあいだ、多香恵は庭に出ることができなかった。
 やがてつつじの花は散り、夏になった。
 住みはじめて二年が経って、パンジーやビオラやつつじ以外の花も植えられていて、庭もだんだんそれらしくなってきていた。
 「みっちゃん、年少さんのときはすみれぐみさんだったからすみれのお花を植えたでしょう。年中さんのときはつつじぐみさんだったからつつじの花を植えたでしょう。年長さんではゆりぐみさんになったから、今年はゆりの花を植えようよ。」
 多香恵は苦笑しながら、百合なら、球根を植えてやろうと思った。
 「来年は、さっちゃん、ようちえんにはいるよね。さっちゃんはなにぐみさんになるのかなあ。」
 二女の佐智恵も、早いもので来年の春には幼稚園に入園する。美智恵と同じ幼稚園だから、そうしたら同じように、クラス名になっている花をほしがるだろうか。
 たんぽぽぐみだったらどうしよう?
 野草のたんぽぽは園芸店には売っていないだろう。美智恵と佐智恵と一緒に、たんぽぽの綿毛をつかまえて育ててみようか。
 梅や桜なら、何とか庭に植えてやろう。
 そのころになって、やっと多香恵は、また庭の手入れに精を出そうと思えるようになった。
 思えば、実家の庭に咲いていたのはつつじだけだった。母がチューリップやラナンキュラスを植えても、祖父は引っこ抜いて捨ててしまった。植木鉢に植えたものでも、同様だった。なぜ祖父がそこまでつつじに固執していたのか、その理由をきいたことはなかった。そういう話しができる家庭の雰囲気ではなかった。
 だが今、多香恵は、優しい夫の洋一と、美智恵と佐智恵といういとおしい二人の子どもにかこまれて、おだやかな日々を過ごしている。少なくとも、あの頃の母のような、鬱屈した思いを抱いて日々を送ることはない。夫と二人の娘をいつくしむことだけに精魂を傾けていけばいいのだ。
 それは、なにものにもかえがたい幸せだった。
 この暮らしを、心の底から多香恵はありがたいと思っていた。
 濃いピンクのつつじの花は、つらい子ども時代を思い起こさせるが、それと同時に、今の幸せを多香恵に再認識させてもくれたのだった。
 今年は、不意打ちのようなものだったからうろたえてしまったが、来年からは、心して濃いピンクのつつじの花と向き合おうと思った。
 美智恵と佐智恵に、昔の自分のような思いをさせたくなかった。それぞれの思い出の花を植えて作っていく庭は、美智恵にも佐智恵にも、そして多香恵自身にも、いつまでも懐かしく思えるところにしたいと思った。

 来年の春、美智恵は小学校に入学し、佐智恵は幼稚園に入園する。
 また、濃いピンクのつつじの花は咲くだろう。
 そうしたら、美智恵と佐智恵にそっと教えてやろう。
 「つつじの花の蜜って、甘いんだよ。」
 そして、三人で、いや、夫の洋一も誘って家族みんなで、庭のつつじの花の蜜を吸って、家族みんなで笑い合おう。
 多香恵はそう思った。

                               (了)
 

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