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れいやの裏プロフィール

現在の私

はじめまして、コピーライターのれいやです。

お読みいただき、ありがとうございます^^

私は今34歳で、フリーランスのコピーライターとして活動しています。

その他に、副業として

仮想通貨FX
仮想通貨FXサロンの運営

も行っています。

私は文章を書くのと仮想通貨が大好きなので、今のシゴトには本当に満足しています。

また、全てのシゴトがオンラインで完結するので、場所や時間を気にせず、ノマド的にシゴトをしています

具体的には、

【朝】
7:00 起床
7:00〜8:00 朝食、支度
8:00〜12:00 自宅で仕事開始(副業のコピーライティングがメイン。)

【午後】
13:00〜17:00 自宅で引き続き仕事(仮想通貨投資や、本業のコピーライティングがメイン。)
17:00〜17:15 GACKTのガクチャンネルを観ながら筋トレ 笑
17:15〜19:00 自宅で引き続き仕事(日によってセーブすることもある)

【夜】
19:00〜20:00 中国ドラマを観ながら夕食 笑
20:00〜22:00 自宅で引き続き仕事(日によってセーブすることもある)
22:00〜23:00 雑務(家事、収支管理、メールのやりとりなど)
23:00〜25:00 風呂入りつつ自由時間
25:00 就寝

という感じで、多分すごい変わった生活してます 笑

基本的に自宅で仕事してますが、気分によってカフェで仕事したり、後は旅行しつつ仕事することも。

仕事ばっかりしてるのは、主に収入を上げたいからです。

というのも私は、去年訪れたバリに心を奪われ、バリに移住するのが夢だからです。

とにかくバリへ行きたい。


私の過去①〜大学時代〜

好きに時間を使えて、好きな場所で仕事ができる。

こういう話をすると、大体羨ましがられるのですが、私は始めから今みたいな生活ができていた訳ではありません

このnoteを読んでくださっている誰よりも、恐らく底辺の人生を歩んでいます。

そもそも私は、正社員として働けるようになったのも「30歳を過ぎてから」

というのも、私は大学3年生の時、重いうつにかかり、20代は全てうつと闘っていたからです。


その時私は、東京で一人暮らしをし、大学で学んでいました。

大学生活は学ぶことのつきない、素晴らしい言語であるフランス語と、そのフランス語を一緒に学ぶ素晴らしい仲間に囲まれ、本当に楽しい日々を過ごしていました。

しかし、私がその大学への通学のために、栃木にある実家を離れている間に、両親の仲が急激に悪化

もともと父親に対し、不信感を持っていた母親は、離婚すると言い出しました。

ただ、私が実家にいた時、育児に家事に仕事にと、あくせく働いて、私たち子供のことを常に気づかってくれていたのは、その母親でした。

また、私が物心ついた時から、両親の関係は冷え切っており、食事中一言も言葉をかわさないほどでした。

そのため、私は以前から、普通の家族というものにすごく憧れていました。

離婚する過程で、母親は私に「実は一緒になりたい人がいるの」と打ち明け、その愛人と一緒に暮らさないかと言われました。

何でも、母親が言うには、私の学費を捻出していたのは、実の父でも母親でもなく、その愛人だとのこと。

冷静に考えればおかしい話なのですが、人を疑うことを知らなかった私は、その愛人が私の学費を払ってくれたことに心から感動し、「その人と母親と、新しい家族になればいいんだ」と、愚かにも思ってしまいました。

それほど私は世間というものを知りませんでしたし、普通の家族に強烈に憧れていたのです。

ですので、私は迷わず、母親側につくと両親に言いました。

私には弟が2人いるのですが、真ん中の弟は父親につき、一番下の弟は、私と同じく母親につくことになりました。

母親は下の弟を連れて家を出て、市営アパートに身を寄せた後、ほどなくして、離婚する前から母親が関係を持っていた愛人と暮らし始めました。

母親を愛していた私も、母親や弟を放ってはおけないと、一人暮らしをしていた東京を離れ、彼らが暮らしていた栃木に戻りました。

栃木に戻ってしまったため、通学が極めて不便になり「片道で1時間半」かかりましたが、それでも彼らのもとを離れたくはなかったのです。

しかし、そこまでして、今まで受けた恩を返そうとした私に襲いかかったのは、想像を絶する地獄でした。


私の過去②〜うつにかかる〜

私たちは、栃木にある母親の愛人の家で暮らしていたのですが、当然その愛人と、私、弟そして母親は全く血がつながっていません。

加えて彼は、非常に猜疑心が強い人でした。

彼にとって一番の関心は、母親が自分を愛してくれるのか、それと、私たち子供が自分を愛してくれるのか。

母親は、その家を追い出されれば他に行くところはないので、母親の彼への愛は疑うべくもなかったはずですが、問題は私たち子供が彼を愛してくれるかどうかでした。

しかし、当時私は20を過ぎてましたし、弟も既に高校生になっていました。

そんな年齢の子供が、ひょっこり出てきた、どこの馬の骨とも知らない男に、「父親と呼べ」と言われてもどだい無理があります。

ですので、私もそうでしたし、弟も、父親と呼ぶどころか、会話も完全に他人行儀でした。

私は、その“父親”との人間関係に精神的に疲れ、また、自分で決めたこととはいえ、栃木⇔東京間を毎日のように往復することに体力的にも疲れ起きるのが11時過ぎと極端に遅くなるようになってしまいました。

うつの人に聞けば分かりますが、これはうつの1つの症状です。

つまり、私はこの頃からうつにかかってしまっていたのでした。

しかし、私がうつにかかっていると露とも知らない母親、それから“父親”は、いつまで経っても私が彼に対しよそよそしくし心を開かないことに、また(本当はうつが原因なのに)大学にきちんと行っているように見えないことに、段々イライラし始めました。

そして、あの忌まわしい事件が起こりました。


ある日、私は、両親の離婚後離れて暮らしていた真ん中の弟に連絡を取り、ファミレスで話をしていました。

弟に会った目的は、当時検討していたフランスへの留学の費用について相談するためです。

高校卒業後、既に働いていた弟は「後で返してくれるなら貸してもいいよ」と快諾してくれました。

しかし、ウキウキしながら家に帰った私を待っていたのは、なぜか怒っている“父親”の姿でした。

家に着くなり私は居間に連れて行かれ、“父親”と母親から、「どこに行っていたのか?」と謎の尋問が始まりました。

この時には既に、私の“父親”への感情、それから事ある毎に私や弟ではなく“父親”の肩ばかりを持つ母親に対しての感情も完全に冷え切ってしまっていました。

また、当時はうつにかかっていたという認識がなかったので、無意識にではありましたが、うつの影響で人に打ち明けることが極端に少なくなっていました。

ですので、彼らからの尋問に私は無言で通しました

そんな私の態度に我慢できなかったのでしょう、突然、“父親”が私に殴りかかってきました。

悲鳴を上げながら母親が間に入り、いったんは落ち着いたかのように見えましたが、依然興奮している“父親”は「お前の魂胆なんか分かってんだぞ。俺を利用して、学費だけを払わせようとしてんだろ」などと訳の分からないことを喚き散らしました。

さすがに私も「違います。そんなつもりはありません。」と否定しましたが、彼は全く聞く耳を持たず、挙句の果てには台所から包丁を持ち出し、「舐めてんじゃねーぞ。お前なんか殺してやる」と私に包丁を突きつけて脅し始めたのです。

私は「このままこいつに殺されて死ぬのか...」と妙に悟りながら、どうしたらいいのか分からず慌てふためく母親、それから私がうつにかかって、そのせいで心を閉ざしていると知らない“父親”が、

私の目の前で包丁をちらつかせながら、叫んでいる光景を見て、「私が欲しかったのはこんな家族だったのか」と心で涙を流しました

と同時に、血のつながった私よりも、ただ肉体関係を持っただけの愛人の肩ばかりを持つ母親、それから“父親”との関係に疲れ、心を病んで心を閉ざしてしまった私に、

言葉ではなく刃を向ける“父親”に、悍ましい憎悪が沸き起こるのを感じました。

私は、家族を作りたいと願う彼ら以上に、家族を心から欲していました

その想いを踏みにじったのは、他でもない貴様らだ。

そう考え、目の前で包丁を突きつける“父親”に対し、激しい憎悪の目で睨めつけました。

すると、その憎悪を感じ取った“父親”は、私に対し「出ていけ!お前の顔なんか見たくもない」と言い放ちました。

そうして、私は、その“父親”の家を出たのでした。


私の過去③〜人間不信の日々〜

それから、再度東京に戻り、一人暮らしを始めた私は、人間不信になってしまいました

心から愛していた母親は、結局“父親”と一緒に暮らしたいだけだった。

私の学費を払ってくれた“父親”は、結局母親の愛を勝ち取るため、私や弟を引き取っただけだった。

近しい人間の裏切りに傷ついた私は、さらに心を閉ざし、うつを悪化させていきました

当時、私は大学4年生に入ろうとしていましたが、同級生に「就職どうするの?」と聞かれても、「いや、進学する予定だから」と嘘をつきました。

本当は、就職する気力も、進学する気力も全くわかず、私は大学卒業後フリーターになりました。

働いていたコンビニでは、大学院生だと嘘をついて、どうでもいい面目を保ちながら、実際はフリーターでその日暮らしをしていただけだったのです。

誰にも心を開かない私に、友人なんてできるはずがありませんでした。ましてや恋人なんて。

そのため、私は、夜間はコンビニで働き、働いた後は自宅で一人でゲームをして過ごす、という孤独の日々を送っていました

しかし、そんな日々が長続きする訳がありません。

私は、現状がいつまで経っても好転しない閉塞感や、1日中一人ぼっちで過ごす孤独感に毎日のように苛まれ、突然コンビニをバックレるということを繰り返しました

バックレては別のコンビニに移り、またバックレる。

こういう最低な日々を繰り返していました。

やがて私は、そのバックレにも疲れ、人生自体に絶望するようになりました。

「なぜ、何のために俺は生きているのだ?」と何千回も自問し、答えが出ないことに絶望し、生きる意味がないならばと自殺を何度も試みました

首吊り。

餓死。

溺死。

線路に飛び降りるなど、人に迷惑をかけて命を絶つ勇気もない私にできる自殺方法を、見つけては試みるということを繰り返しましたが、死にきれないのです。

死のうとする時に、必ず弟2人の顔が頭をよぎるのです。

「俺が死んだら、弟たちは嘆き悲しむだろう。自殺した兄を持つ人間として、陰口を叩かれるかもしれない。弟に迷惑はかけられない。弟をおいて死ねない」と。

しかし、心をむしばむ生への絶望をどうすることもできませんでした。

生きることに疲れ、それでいて死ぬこともできない私は、働くのをやめ、当時住んでいたアパートを離れました。

そして、横浜駅でホームレスとして過ごしました。

涙を流しながらコンビニの残飯をあさり、駅の地下で一人寂しく横になった日々のことは生涯忘れることはないでしょう。

私は、そんなホームレスとして1週間前後過ごした後、そういったホームレスの人たちを見つけて収容する施設の人に拾われ、施設に移りました

しかし私は、せっかく自分を迎えてくれたその施設も、1ヶ月も経たずに出ました

国立大学を出たという自尊心本当は私は頭がいいのだという、劣等感の裏返しのプライドから、「俺はこいつらとは違うのだ」と施設の人たちを蔑んでしまい、どうしても一緒にいるのが嫌だったのです。

働いてすらいない私を迎え入れてくれるなんて、普通は感謝してもしきれないくらいですが、本当に当時の私は愚かでした。

しかし、当時の私にとって、もう残っているのは自尊心しかなかったのです。

うつでろくな仕事にも就けない

家族にも裏切られた

友人や恋人もいない

そんな私にとって、唯一頼れるのが、過去の私、つまり国立大学を出たという実績でした。

私に唯一残された、国立大学を出たという実績が生む、醜い以外の何物でもないプライド。

このプライドが施設にいることを潔しとしませんでした。

私はその後、下の弟に連絡を取り、彼が当時住んでいたシェアハウスに住まわせてもらうことになりました。

そのシェアハウスには、私を含め計4人が住んでいたのですが、その4人のリーダー的存在だった0さんや弟に非常に良くしてもらい、私は長年閉ざしていた心を徐々に開いていきました。

そして、私は、あの本に出会ったのです。

私の過去④〜ある本と、ある職業との衝撃的な出会い〜

ちょうど30歳を過ぎたころだったと思います、私はある日、家の近くのコンビニを訪れました。

よく立ち寄る雑誌コーナーに、『自分の「うつ」を治した精神科医の方法』という本が置いてありました。

私はそのタイトルを見て、中身を読んで、長年の謎がやっと解けました

私は何の病気にかかっているのか?という謎です。

うつ病の方に聞いてみると分かるのですが、うつ病の人全員が全員、自分がうつだと自覚している訳ではありません

当時の私もその一人でした。

自殺衝動によく襲われる重いうつにかかりながらも、その病気の名前を知らなかったのです。

その本を見て衝撃を受けた私は、さっそく購入し、家に帰って隅々まで読みあさりました。

『自分の「うつ」を治した精神科医の方法』には、その名の通り、うつを治す方法が載っているのですが、私はその本の教えの通りに実践しました。

(この辺りの詳細は、別noteで詳しくお話ししてます)

するとどうでしょう。

あれだけ苦しんでいた悲壮感や倦怠感が嘘のように消えていくではありませんか。

私は、その本を読んでから約半年後にうつを完治させることができました。

うつが完治したことで、今まで無理だと諦めていた、正社員という地位を獲得し、社会に復帰したいと思えるようになりました。

と言っても、何せ10年近くフリーターだったものですから、いきなり正社員になるのは気がひけるので、まずはパートから慣らしていくようにしました。

そば屋のパートや調理見習いのパートをした後、私は派遣社員として、フォークリフトで荷物を運搬する下請け工場で働き始めました。

派遣社員になることで、私の月収は飛躍的に上がりました。

それまで月収10万円代が当たり前だったのが、20万円代になったのです。

「何を低レベルな話で驚いているんだ」とお思いの方もいるかもしれませんが、うつに10年かかり、ホームレスを経験し、自殺未遂も経験した私からすれば、本当に大きな飛躍でした。

その後、私は、フルコミの電話営業を経験した後、その会社のツテで、東京にあるWEBマーケティングの会社に、アルバイトとして働くようになりました。

そのWEBマーケティングの会社では、最初、情報商材を購入されたお客様の電話応対を行っていました。

空いた時間は、その会社で行っていたプロダクト・ローンチという海外の最新マーケティング手法の勉強。

PC
スマホ
LINE@
youtube
wordpress

こういったツールを駆使しながら、億を優に超える売上を毎回上げる、そのプロダクト・ローンチという手法に魅了され、勉強するのが楽しくて仕方ありませんでした。

その会社は当時、相当儲かっていたので、メインオフィス以外にも、近くにいくつもサブオフィスや、マンションを所有していました。

そして、ある日、当時進行していたプロジェクトの打ち合わせで、会社の所有するそのマンションを訪れた時のこと。

マンションの一室で、一人こもりながら、黙々とPCを叩いている人を見かけました

あまりにも作業に没頭していたため、私は彼に直接声をかけるのに気が引けて、同行していた上司に彼は何をしているのか聞いてみました。

すると、「ああ彼はコピーライターだからね。今度の案件のライティングをしてるんだよ」と教えてくれました。

それが私とコピーライティングの最初の出会いでした。

それまでの私からすると、コピーライターという職業は、そのプロジェクトでお客様に送る文章を書いている人、という程度でした。

しかし、あのマンションの一室で黙々と書いていた彼を見てからは、「そんなに書くことに熱中できて、しかもお金ももらえるなんて、何て素晴らしい職業なんだろう」と興奮が止まりませんでした。

そして私はすぐに、会社でコピーライターのトップを務めていた方に懇願し、コピーライターとしての道を歩み始めることができました。

最初は、先輩のコピーライターの仕事をもらって、必死に文章を真似していました。

しかし、私はコピーライターとしての道を歩み始めてから、この仕事に対して大きな誤解をしていたことに気付きました。

それは、売れる文章と、私が学校で習ってきた、文法的に正しく綺麗な文章というのは全く違うということです。

文章を書くこと自体は、もともと本を読むことが好きでしたので、それほど苦ではありませんでした。

しかし、会社で求められる「売れる文章」というのがなかなか理解できず、本当に苦戦しました。

特に、当時の私は、非常に頑迷で、一度こうだと思ったら、それ以外のことが見えなくなる傾向にありました。

コピーライターの初心者であるにもかかわらず、困ったことに、小説やビジネス書をたくさん読んできたという自負があり、私の文章は正しいという妙なプライドがあったのです。

考え方が変わっていないので、いくら文章を真似して書き方やテクニックを身につけても、私の文章がお客さんの心を打つことはありませんでした

その会社には、コピーライターのチームというものがあり、そのチームには、約10名、最盛期で20名強のコピーライターがいました。

しかし、私は、常に成績がドベ

後輩にすら追い抜かされて笑われる始末でした。

売れる文章というものを一向に認めず、自分の文章が正しいと思い込んでいた私は、その会社を辞めるまで、ついぞ日の目を見ることはありませんでした

私の過去⑤〜再び人間不信に〜

あれは私が会社に入ってから一年くらい経っていたかと思います。

その頃、会社は、新宿のタワーマンションで大きなオフィスを2つ借り、あるプロジェクトで20億もの売上を叩き出したり、高級ホテルでイベントを頻繁に開くなど、栄華を誇っていました。

が、急激に成長した反動で、社員の不満が増大し、社員が匿名で会社をネット上で批判したり、幹部が次々に退社したりと、社内に歪みができ始めていました

私は、会社の意向と、コピーライターとしての自信を失ってしまっていた関係で、広告部署に移っていました。

広告部署の仕事は、社内のプロジェクトを宣伝すること、それから他社のプロジェクトを、自社リストで紹介すること。

要はアフィリエイトが主な仕事でした。

仕事自体は、そこまで大変ではありませんでしたが、その頃から私は、社内の人間や会社との距離をとり始めました

何故かははっきりとは分からなかったのですが、違和感を感じていたからです。

飲みに誘われても行きませんでしたし、社内の雑談に加わることもありませんでした。

元来の人間不信がここに来てまだ出たのでしょうが、結果的にその人間不信が功を奏しました

というのも、程なくして、あの忌まわしい事件が起こったからです。

WEBマーケティングの広告というのは、やる人がやれば、いくらでも会社からカネを抜き取ることができます

ですので、私も、やろうと思えばカネを抜き取ることができましたが、広告部署に移ってから絶対にやらないと心に誓っていました。

なぜなら、私にとってその会社は、「初めて正社員として雇ってくれた会社」だったからです。

会社は一度栄華を極めてから、その後ウォーターフォールのように急激に業績が悪化していくのですが、私は業績が悪化してほとんどの社員が去ってからも、その会社に所属していました。

雇ってくれた会社への恩を返すためです。

私にはそういう義理堅いところがありましたので、いくらカネを抜き取れたとしても、拾ってくれた会社への恩を仇で返すなんて絶対にできませんでした。

しかし、そのカネを抜き取れるということを利用して味をしめる奴は必ずいるだろうと、絶えず注視していました。

最初に怪しいと感じたのが、その部署の右腕ともいえる女性が辞めた時です。

当時彼女は毎月のように高い売上を叩き出しており、月収も100万は下らなかったと思います。

辞めた後も、アフィリエイトをやると人づてに聞き、私は絶対におかしいと思いました。

個人でやろうと別の会社でやろうと、その会社で稼ぐ以上にアフィリエイトで稼ぐのは非常に難しかったからです。

また、その広告部署のトップもおかしい点がいくつもありました

第一、どこにいるのか分からないことが多く、連絡が付かないことが多々ありました。

部署の収支管理も、見たことのない経費が落とされていたり、全く知らないアフィリエイトセンターが立ち上げられて売上が発生していたりなど、カネの行き来がいつも不透明でした。

私と同じように不信感を持っていた社長に依頼され、私は、その上司が不正をしていないかどうか、密かに調査を始めました

すると、驚くべき事実が分かったのです。

その上司は、なんと約3,000万円ものカネを懐におさめていたということ。

先程の女性も、在籍時やはり不正を行っており、1,000万円弱のカネを受け取っていたということ。

その他にも、計20名程度、会社のカネを懐に入れたり、会社のリストを私的流用したりと、身の回りの人間が次々と悪事に手を染めていることが分かったのです。

会社に対して恩を感じていた私は、悪事に手を染めていた同僚たちから非難されるリスクを承知で、事の顛末を正直に社長に報告しました。

しかし、弁護士事務所まで赴いて、会社のカネを取り戻してあげようと尽力したものの、その後会社の業績が悪化して倒産まで追い詰められ、

それどころではなくなったというのもあり、悪事を犯した彼らは結局裁かれることなく終わってしまいました。

初めて正社員として雇ってくれた会社が、他人のカネを平気で盗み取るゴミ人間の巣窟だった

私にとってこの事実は、母親や“父親”に裏切られて以来、私の心に深く根付いた人間不信をさらに強め、私は再び心を閉じました

また、その事件が発覚した後、私は会社を離れました

しかし、その会社に在籍している時に出会った、今のメンターのおかげで、深く閉じた心を再び開くことが出来たのです。

私の人生の最大の転機

メンターに初めて出会ったのは、私が広告部署に移る前、まだコピーライターとして働いていた時だったと思います。

私のメンターは、非常に多才な方で、セミナー講師もできるわ、コピーライティングもできるわ、仮想通貨投資もできるわで、本当に非の打ち所がない方です。

在籍時は、メンターのコミュニティに入るなどして、ゆるくつながっていたのですが、会社の業績が悪化し、人がどんどん辞めていく最中に、今後自分はどうしたら良いのか、何度か相談に乗っていただきました。

メンターは、私が彼と同じコピーライターであることにすごく共感してくれ、彼が経営する会社に移らないかと言ってくださいました。

それで私は、初めて正社員として雇ってくれたWEBマーケティングの会社を辞め、メンターが経営する会社に転職しました。

メンターの会社では、再びコピーライターとして働き始めました

メンターが、実力も実績もあるプロのコピーライターでしたので、とても学ぶことが多く、良い仲間にも恵まれ、会社で働くのはとても楽しかったです。

メンターのコミュニティのお客様で、副業を考えている方に、LP(ランディングページ)を書くという貴重な経験もさせてもらいました。

ただ、私は、メンターの会社に入って半年くらいして、そこで働いていた他のスタッフといざこざを起こしてしまいました。

どうしても折が合わず、彼と一緒に働くのは難しいと判断したため、私はメンターの会社を辞めることにしました。

そして、今のようなフリーランスのコピーライターになりました。

しかし、私は、メンターの会社を辞めた後に、メンターに対して本当に不義理なことをしていたことに気付きました

自分が前の会社で本当に困っていた時に手を差し伸べてくださったのに、自分のコミュニケーション力不足で、スタッフといざこざを起こして辞めてしまい、恩を仇で返すようなことをしてしまった

私は辞めてからこのことが頭にずっと引っかかっていました。

色々考えた結果、もともと望んでいたフリーランスのコピーライターとして活動しつつ、メンターに教えていただいたコピーライティングの知識やノウハウを、これからコピーを学ぶ人に継承していこうと思うようになりました。

そうすることで、メンターの教えをより多くの人に広め、社会貢献をすることができますし、何より本当にお世話になったメンターが喜んでくれるのではないかと思ったからです。

ここまで、私の過去を読んでくださった方ならお分かりになるかと思いますが、私の人生はこれまでベクトルが常に自分を向いていました

10代は自分が生まれた家庭や“父親”との恩讐を乗り越えるのに必死、20代は重く心にのしかかるうつと闘うのに必死、

30代になって初めて正社員として働かせてくれた会社では、会社の言いなりになって思考停止状態になってしまっていました。

私はメンターの会社を離れることで、自分に向けていたベクトルを人生で初めて他人に向けて、コピーライティングを通して世の為人の為に貢献していきたいと思うようになったのです。


今の目的や使命

コピーライターとして、自分のライティング力で、これから副業や独立を考えている人を助けたいと思い、副業をバックアップするビジネス PYRAMIDを、今年の7月末に知人と立ち上げました。

また、メンターにはコピーライターに一番重要な「愛」という心構えを教えてもらいました。

人を愛し、お客様を愛する

そうすれば、自然と良い文章になると教えてもらいました。

私にとって、この考え方はコピーライティングを行う上での心の支えであり、迷った時はいつもその教えに立ち返るようにしています。

コピーライターという職業は、自分の好きな時に場所を選ばず書けるし、また実力次第で収入も跳ね上がっていくし、お客様にも感謝されるしで素晴らしい職業だと思っています。

その反面、文章の書き方に正解がある訳ではないので、非常に迷走しやすいです。

私のような器用貧乏の人にとっては特に 笑

私自身、コピーライターという仕事に出会って、それからメンターの教えに出会うまで、2年弱はさっぱり芽が出ず、どう書いたらいいのか分からず、暗闇の中を手探り手探りでやってきました。

メンターの教えのおかげでその暗闇から抜け出すことができたので、メンターの教えを広めることで、恩返しをしたいなと考えています。

具体的には、メンターの教えを元に月収250万円のフリーランスを目指し、これから副業でライターを始めたい方に、Twitterを通してメンターの教えをシェアしています。


私の裏プロフィールを最後までお読みいただき、本当にありがとうございました^^

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