「私の2両目」~忌まわしくも愛着がある場所
事故に遭うまでは、電車の何両目に自分が乗っているのか…ということを気にすることは全くありませんでしたが、当たり前の話だけど、電車は前から順番に1両目、2両目と繋がっていて、脱線してぶつかったり、踏切で立ち往生しているトラックに突っ込んだりして一番ダメージを受けるのは、やはり前方の車両ということに初めて気がつきました。
私が乗っていた2両目は、マンションに激突して「く」の時に折れ曲がり、一番多くの犠牲者を出した車両です。忌まわしく悲惨な現場なのに、2両目という場所の響きには、私の中では愛着にも似た不思議な親近感のようなものを感じています。その「2両目」についての思いを書いてみます。
31歳で大阪の会社で勤務し始めてから事故に遭うまでの4年間、通勤時にはほぼ毎回2両目に乗車していました。当時、私が住んでいた生瀬という駅は快速電車が停車しない駅だったので、普通電車で宝塚駅まで行き、そこでホームの反対側に止まっている東西線の快速電車に乗り換えていました。大阪で降りた後は、駅の前方の出口から会社に向かうので、前方車両に乗る方が便利だったからです。
しかし、1両目付近には、当時、宝塚駅に喫煙場所があったので、停車中に車内に煙の匂いが流れて来ることもあって、その場所は避け、3両目は女性専用車両だったので、その間の2両目が自分の定位置だった訳です。東西線は宝塚駅が折り返し駅になるので、通常は普通電車から乗り換えると8割方は座れました。座れなかった場合は、1両目の運転席の後ろが広くて立っていやすい場所でしたので、1両目まで移動して立っていました。
あの日、もし2両目で座れなければ1両目の先頭に移動していたと思いますので、私は今頃生きていなかったでしょう。
事故直後の2両目の車内は、筆舌に尽くし難いほどの悲惨さでした。私自身はほとんど気を失っている時間が無かったですし、私がいた場所は車体の天井がはぎ取られて燦々と日が照りつけていたので、その悲惨な光景をはっきりと目にすることができる場所でした。私の周りの方はほとんどが即死状態の方が多く、顔が半分に裂けている人や片目が潰れている人、頭の皮がめくれ上がっている人などがいました。
瓦礫と化した車体や裂けた車内の壁面、吊り革のポール、クーラーのファン、アルミのフレームなどが凶器になって人に突き刺さり、外れた座席などが複雑に絡み合った状態で、人が何十人も山のように積み上がっていました。私の隣には、両足を人の山の上の方に挟まれてぶら下がっている人がいましたが、両腕から地面に血が滴り落ちている状態で、すでに亡くなっているというのがすぐに分かりました。
私は、2両目が激突してぺちゃんこになっている柱のすぐ隣にできた1mほどの空間にいて、人の山に右足の太ももから下を挟まれ、反対を向いてぶら下がっている状態でした。あまりにも絶望的な状態で、人が生きていて欲しいと願うことすら否定されるような現場で、人の山の一番下で足だけ見えている状態の人は、途中で動かなくなりました。
事故後しばらく、ミンチの肉や温泉タマゴなどを食べることができなくなったので、妻が食事の内容にも気を使ってくれていました。
そして、2両目の後方に乗っていて、激突後に車両の前方にまで飛ばされて行った私がこの程度のケガで済んだのは、きっと車両前方に乗っていた人がクッションになってくれて、自分が彼らを押し潰してしまったのではないかと考えるようになりました。事故後の報道で3両目の車両の中の写真が公開され、その後もときどき使われることがあったのですが、とても違和感がありました。
どの車両に乗っていても被害を受けたことに代わりはないのですが、あの写真は電車の車内という形が認識できる映像ですので、私がいた場所のどっちが上で何がなんだか良く分からないほどグチャグチャに潰れ、スクラップ状態の残骸と化した車両とはほど遠い現状を伝える内容だからです。
あの事故現場は、間違いなく自分の人生の大きな分岐点になった場所です。事故現場のことを忘れたいという被害者の方もおられますが、私は忘れたいとか思い出したくないと思ったことは、今まで一度もありません。事故から2年目ぐらいまでは、忘れるどころか、額の裏の前頭葉というか、目玉の裏の辺りにずっとその映像が焼き付いているような状態でした。
しかし時間と共に、あんなに鮮明に覚えていた場面が、徐々にあやふやになってくるのを感じ始めました。それに加えて、報道で見続けている別のアングルの映像や写真が、いつの間にか自分の記憶のように書き換えられ、いったいどれが本当の自分の記憶なのか分からなくなってくる危機感を持つようになりました。
そう思って描き始めたのが「眼窩の記憶」というタテ180cmもある大きな絵で、何度も描き直して、かなりの時間をかけて完成させました。報道関係の方が、「作品」という言葉を使ってくれることがありますが、私にとっては、自分の記憶を忘れないうちに描いておこうと思っただけのものなので、作品というよりもただの絵という感じにしか思っていません。
そもそも見て頂きたいと思っていたのも、自分が話をする報道関係の記者やJRの職員が対象でしたので、一般の方が目にするということは全く想定していませんでした。
何度も何度も頭の中で反芻してきた事故現場なのに、時間と共に記憶があやふやになっていくことが許せないという感覚を拭いきれませんでした。私がいた場所は、「く」の字でマンションにへばりついた内側なので外からの写真もありませんし、もしあったとしても、車両の中に人が山積みになっているような写真が表に出て来ることはないでしょう。
でも、もし自分がいた場所の事故直後の写真が残っているならば、見てみたいと思っています。あるとすればレスキューの方が撮っているかもしれませんが、自分にとってとても大切な2両目のあの場所のことを、自分以外の人が知っているかもしれないと思うと、嫉妬や妬みを感じるほどです。何だかとても変な感覚ですが、あんなに悲惨で目を背けたくなる場所なのに、私にとってはすでに自分の中に同居している大切な場所でもありますし、同じ2両目に乗っていた方に対しては、どういう表現をすれば適切なのか分からないけど、無条件に思いを共有できる人という特別な感情があります。
逆に、2両目以外のことは全く関心が無いと言っても過言ではなく、おそらく1両目で生き残った人も同じようなことを感じているのではないかと思っています。他の車両のことに思いを寄せるほど、余裕がないという言い方もできるのかもしれません。私には、真っ暗な穴の中で身動きができず、ガソリンの匂いが充満していた1両目の中の恐怖は想像できませんが、そこに乗っていた若い女性が、私と同じように「記憶が曖昧になっていく自分を許せない」ということを言っていました。彼女の言葉はとても共感できるものが多く、事故現場に対して私と似たような感覚を持っているのではないかと感じています。
事故後、事故現場のことを忌まわしい場として自分の中に認識し、遠ざけてしまうこともできなかった訳ではなかったんだと思いますが、たぶん、そうした姿勢を取って行動をしていたとしたら、おそらく今のような心境にはなれていないだろうと感じています。
ずっと、自分の人生の転機になった場所のことを反芻し、それを自分の記憶の中で共存することによって、その後に過ごして来た時間や行動に意味を持たせることができるようになったのではないかと感じています。
私にとっての2両目は、ぐちゃぐちゃになった車両が凶器になって多くの人の命を奪った忌まわし車両であると同時に、あんなにボロボロの姿になって私の命を守ってくれた愛おしい存在でもあります。そうした両方の感情があって、単純に「事故車両=憎むべき存在」というようには考えることができないのです。
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