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ヨハネの第一の手紙2章18節ー19節

「終わりの時」
ヨハネは教会に対して終わりの時が来ていますと告げるのです。私たちは終わりを信じる信仰に生きているのです。なんとなく終わるのではありません。神が意志をもって終わらせるのです。ここから理解できるのは悪が支配する世界はいつまでも続かないという希望です。どんな苦しみにも困難にも終わりがあると言うのです。なぜならキリストの再臨によって神の国が完成するからなのです。これが教会がずっと大切にしてきた信仰なのです。

但し、世界がだんだんよくなって終わりが来るわけではありません。事態は逆なのです。反キリストが来るとあるからです。反キリストが消えて終わりが来るとはありません。むしろ状況は悪化し、多くの反キリストが活動する。実はそれこそが終わりの時が近い証なのです。何もかもが悪くなっているような時でも神が手をこまねいているわけではありません。かえって状況が悪い時こそ希望の時が近い信仰に立つことが求められていると言えるでしょう。

ところで、ここで言う反キリストとは具体的には異端の教えを指しています。彼らは教会の中から出てきます。あからさまな迫害や敵意とは限りません。本当に危険なものが危険な顔をして近づいてくるわけではないでしょう。きわめて魅力的な姿で人を引き付けることも起こります。実際、彼らは現代風の哲学を提唱し、神秘的体験を重んじ、誰も知らない特別な知識を得ていると告げていたようです。キリストの受肉も贖罪も否定したことでしょう。

いかにも耳心地のいい、もっともらしいことを語りさえするのです。そういう主導者たちが教会から出て行ってしまったのです。おそらくは教会の教えはもう古い。時代遅れだ。自分たちだけで時代にあった新しい集団を作ろうとでも言ったことでしょう。彼らは教会の中から追従者を引き連れて出ていったのです。教会は分裂といってもいい厳しい状況を体験したのです。そういう教会にヨハネはなんとか励ましを与えようとしているわけです。

古代に限った話とは思えません。現代でも似たような風潮を見聞きするからです。教会を出て、どの教会にも属さず、教会を批判して独自の活動をするのです。ひとつ言えるのは、自分たちの愛や祈りが足りなかったから人が出ていったわけではないのです。接し方の問題ではないのです。なぜなら、彼らはもともと仲間ではなかったとあるからです。なぜ仲間ではないと言えるのでしょう。別にヨハネが彼らは仲間ではないと判断したのではありません。

仲間ではなかったことを明らかにして下さったのはあくまでも神様なのです。主なる神が働いて、教会を危機から守られたと言ってもいいでしょう。このことを何か思いがけないことが起こったかのように驚くことでもありません。こういう事態が起こるだろうことはかねてから聞いていたことのはずなのです。しかし、クリスチャンは動揺せずキリストのもとにとどまり、教会にとどまります。互いに愛し合う掟に生きようとするのです。


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