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第二ペテロ1章10節ー11節   

「向上を目指して」
プレゼントを頂くことは嬉しいものです。ペテロもプレゼントについて語るのです。信仰者は全員、神からの召しと選びを頂いているのです。これは恵みとして与えられた救いと関係あります。従って自分は救われてはいるが召されてなどいませんと言えるクリスチャンはひとりもいないのです。救いと召しはセットなのです。すべては神の恵みとして一方的に用意されたものです。私たちは神に召されていることを感謝したいのです。

ところが矛盾するようですが、この召しを熱心に確かなものとせよとあるのです。まるで救われるのに努力でもいるかのように思ってしまいます。もちろんそういう意味ではありません。ペテロが言いたいのは召されていることを無駄にするような人生を送ってはいけないということなのです。どこまでも主にあって向上を目指し、前進するのであって、停滞や足踏み状態などあり得ないのです。ましてや後退など起ころうはずがないのです。

ここでイメージされているのは軍隊の行進です。目的に向かって前に向かう集団なのです。決してひとりで進んでいるわけではありません。義の兵士として多くの神の民が共同体としていっしょに天国に向けて前進している姿。教会とはそういうところです。とは言え、暴力と戦争のための兵士ではありません。集団で走るマラソンランナーを連想してもいいでしょう。神の愛を分かち合い、神の国を押し広げる者としてともに走りゆくのです。

それなのに、召されていることも使命も忘れて生きているとするならば、隊列から脱落し道を踏み外していることが心配されてしまうではありませんか。しかも歩むべき道は自分の道などではありません。主が用意された主の道なのです。我が道を歩むと言うなら脱落も起こるでしょう。しかし、主の道を歩む以上は、主からの助けが豊かに加えられるのは当然ではありませんか。必要な助けが折に触れてあれもこれもと加えられていくのです。

弱さを覚える者であるなら、尚のこと、必要を備えて下さらない主であるはずがない。脱落する者が起こらないように主ご自身が支えて下さらないはずがない。まるで追い風が吹くようなものです。その豊かな恵みは、困難が多い人生の中にあって、キリストの永遠の御国にまで私たちを必ず導き入れて下さるに違いありません。こういう約束がある以上、私たちはもう一度自分の召しを確認し、向上を目指し、熱心に与えられた奉仕に励みたいのです。

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