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第二ペテロ1章14節ー15節   

「約束の地へ」
誰でもどのような人生を歩むのかを考えるものでしょう。もっともどんな人生計画を立てようとも、それが通るとは限りません。お決めになるのは主イエス様なのです。信仰を与えられ救われた者である以上、主導権は主にあるわけです。人生をどこでどう用いられるのか、主が考えて下さいます。それなら、自分の思い通りにならないとやきもきする必要もないでしょう。人生が思い通りにならないこと自体、人生が自分のものではない証です。

実際、復活の主はかつてペテロに告げられました。あなたが年をとった時には自分の手を伸ばし、ほかの人が帯をさせて、行きたくないところに連れていく。したくないことをすることになり、行きたくもないところへ連れていかれる。その先には必ずしも自分が望んだわけでもない最後が待ち受けていることを覚えせざるを得ない。確かに主の言われた通りになったとペテロは人生を振り返っているのです。

ひとりの誕生から死までを神が用いて下さる。実際、ペテロはこの世を去る日を覚悟しています。しかも出エジプトと同じ言葉をあえて使っているのです。死とは惨めなものでも敗北でもなく栄光の神の約束の地へと迎え入れられることなのです。それなら、あんな悲惨な死を遂げるくらいなら、信仰など持たない方がましだと言うべきではないのです。人は何にいのちを賭け、何に全身全霊を傾け、どう生き、どう死んだかですべてが物語られるからです。

私たちはいのちを費やしても惜しくない福音に召されているのです。それを絶えず思い起こす必要があるのです。ペテロの訴えはまるで遺言のように響きます。なんとしてもこの恵みを思い起こせるように、努めるのだと告白していることからわかります。思い起こさせねばならないほどに忘れてしまうことがないとは言えない。だからこそペテロは福音の確かさを思い起こさせることが自分の最後の務めであると自覚するのでありましょう。

これが福音の道です。私たちが初めて歩き出した道ではありません。自分より先に生きた代々の聖徒が歩いてきた道を歩むのです。私たちのあとに続く者が起こって欲しいと祈りながら歩みを進めるのです。もちろん、この先に何が待っているかは神ならぬ身にはわかりません。だとしても主は私たちを用い続けて下さることでしょう。最後の息を引き取る瞬間まで。その証を残すのです。主は真実でしたと語り伝えようではありませんか。

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