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第二ペテロ2章9節ー11節   

「悪に負けることなく」
アブラハムの甥ロトの例を引き合いに、ペテロは敬虔な者について語るのです。敬虔な者は、どんなに悪がはびこる社会にあっても神が誘惑から守って下さると言うのです。確かにロトも悪徳の町から救出されました。たとえ悪に傾く者が多数であろうと、敬虔な者が少数であろうと数はまったく関係ないのです。だから悪に負けることなく信仰の道を歩み通そうとペテロは励ましているわけです。

同調圧力の強い社会の中では、敬虔に信仰に生きようとするにはある種の緊張感が強いられます。しかし、言葉を変えるとこうは言えないでしょうか。その分、私たちは日々鍛えられているのですと。ぬるま湯のような世界で生きるよりも、はるかに信仰の足腰が強められているとも言えるわけです。実際、危機の中で信仰が守られるように神の手を体験することもしばしばではないでしょうか。

一方、不義な者たちとはここでは偽預言者たちを指すのでしょう。救われた自分は何をしても自由なのだと履き違え、再臨を否定し、享楽に生きる人たちです。しかしペテロは裁きの日は必ず来るのだと警告します。たとえ今は栄華を極めているように映ったとしても、一瞬のことにすぎない。何が善で何が悪であるかを主ご自身が明らかにして下さる終末の訪れは必ず来るのです。

彼らは権威を侮る者です。キリストの権威さえ軽視することでしょう。主の権威さえないがしろにするくらいですから、栄誉ある者たちと呼ばれる天使をそしることも平気なのです。ここでは天使とは神に託されてこの世界の秩序を保つ存在だと考えられています。彼らはあえて教会の秩序さえ壊して、信仰の伝統さえ破って、自分たちは何をしても自由だとうそぶくほど尊大なのです。思い上がって高慢にとりつかれているのです。

怖いもの知らずと言ってもいいでしょう。それは身の程知らずだということでもあるのです。自分の立場がわきまえられないほど愚かなのです。だからと言って天使たちは彼らをそしって主の前に訴え出るようなことはしません。人間以上に勢いも力もある天使ですが、決して自分の分を越えようとはしない。どこまでも自分の本分にとどまりながら、むしろ謙遜に来るべき神の審判を待つのだというのです。

いつの時代も教会への挑戦は起こります。もっともらしい理屈を並べて自分を正当化しようとしても、その本質は思い上がりです。だからと言って、私たちがやっきになって彼らを攻撃する必要はありません。むしろ福音を証しすることです。現代にも異端と呼ばれる活動は起こります。ただし、知っていて意識的に教会から離れることと、福音に出会う前に間違った教えにのめり込むことは違う。福音を伝えることこそ鍵だと責任の重さを思うのです。

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