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第二ペテロ1章12節ー13節   

「思い起こす」
私たちが教会において聞くのは主からの励ましの言葉です。社会には人を萎えさせる言葉が満ちています。人を傷つける言葉が溢れています。特に自分の知識量を誇ってこんなことも知らないのかと鼻で笑う人もいることでしょう。しかしペテロはここで相手が知らないことを伝えようと言うのではないのです。すでに主イエスを知り、福音の何たるかとその素晴らしさを知る者に対して改めて語りかけ、確かめさせているのです。

それなら、何も目新しいことに心惹かれることもないのでしょう。なぜなら今まで聞いてきたことを思い起こすだけで十分なのですから。ペテロは聞いた者が思い起こすことで奮い立つことを望んでいるのです。思い出すなら何の変化も起きないはずがない。奮い立つ行動が必ず出てくるのです。感謝なことに、私たちは何度も繰り返し福音を聞いています。心弱る時、思い起こさないといけないのは別の何かではありません。この福音なのです。

しかも、ここでペテロは明らかに自分の死を意識しています。それも自然死ではないのです。信仰ゆえの殉教の死が覚悟される。その際、伝わってくるのは悲壮感ではありません。志半ばで去る無念でもありません。このからだは地上の幕屋に過ぎないとたとえられるのです。かつてアブラハムもモーセも天幕を張って旅をし、神の約束の地を目指したことと重なります。地上の旅路はやがて終わります。その時に待っているのは天の約束の地なのです。

どうせこの世を去るのだから、後は野となれ山となれと言うわけではありません。足跡として残したいものがあるのです。それは決して自分の自慢や手柄話などというレベルのものではないのです。ペテロはただ、イエスキリストのみを指し示したいのです。後に続くひとりひとりの顔を浮かべながら、この方の恵みを、真実を、救いを遺言のように残していく。それこそが自分のなすべきことであるとの強い自覚があるのです。

私たちも先に天国に帰られた方の語られた言葉や、生き様を思い出すことがあることでしょう。愛する方々から伝えられた信仰の遺産があるはずなのです。その人生の中に主の恵みを見ることができるはずです。その生涯を通して主の真実に触れることができるはずです。辛い時、困難な時、愛する方々を支えた信仰を思い返すなら、私たちもまた歩みだせるはずではありませんか。私たちも同じ主を信じているのですから。

ペテロに限りません。私たちの地上の歩みもいつかは終わる日がやって来ることでしょう。生かされている限り、主の証をこそ語り継ぎましょう。その語りの中で、確かに自分もそうでしたと恵みを思い起こす人が奮い立つことでしょう。次の時代を生きる者がこの道で間違いないのだと確信するに至るでしょう。萎えていた心が引き上げられ奮起し、もう一度立ち上がろうとする人が起こされるに違いありません。

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