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ルカ2章1節ー7節

「ベツレヘムで」
クリスマスは旅の物語でもあります。ヨセフとマリヤも旅をするのです。ナザレからベツレヘムへ先祖の地元に120キロもの道程でした。理由はローマ皇帝アウグストの命令による人口調査です。彼は全世界を手中に収めた驕りを持ち、国家強大化のための増税、軍事拡大、インフラ拡充の土木工事などの目的で人の頭数を数えるのです。権力者が弱い立場の者を意のままに利用しようとする時代。それがヨセフとマリヤが生きた時代でした。

地元で戸籍を登録するためには仕事を長い間、休むことを余儀なくされます。だからと言って国が生活を保障するわけでもない。今でも同じことは起こります。私たちも思いもよらない形で嫌なことを押し付けられ、巻き込まれます。貧乏くじと言うほかない事態。しかし、それでも神の計画はこういうことを通しても進んでいくのです。神の計画とは自覚をもって喜ばしいことを受け入れることの中だけに見られるとは限らないのです。

不思議なのはこの度に臨月間近の身重のマリヤも同行したことでしょう。当時の登録は代表者一人が済ませば十分なのです。何も家族総出で出かける必要などどこにもありません。それにも関わらずマリヤを連れてゆく理由はナザレに彼女の居場所がなかったためです。家族にも地域にも頼れない。口さがない者に噂される孤立無援の状態でした。危険な旅になるのがわかっていてもナザレに彼女を残すことが忍びなかったヨセフの心情を思うのです。

権力者の横暴は深刻ですが、しかしそれ以上に小さい共同体の仲間内の冷たい傷つけあいに悩まされることもあるものです。事情のある人とは関わり合いになりたくない厳しい排除の現実に晒されます。現代社会も居場所づくりに失敗しているとしか言わざるを得ません。どこにも居場所がない人が溢れているからです。慰めがあるとすれば、彼らの旅に救い主が伴っていられたことです。居場所のない人と神はともにいて下さるのです。

ところで小さい村落ベツレヘムに宿屋があったとは考えにくいのです。仮にあったところで当時の宿屋はいかがわしい場所でしたので信仰者は近づきませんでした。従ってヨセフは地元の親戚や遠縁の家を頼ったと考えられるのです。当時はどこの家にも客間はありましたが、彼らを入れる余地がないとはわけありのカップルを冷たくあしらったと言うことでしょう。彼らはナザレだけではなくベツレヘムにも居場所がなかったのでした。

しかもそれは悪意からではありません。彼らなりの正義感からなのです。正しいことが誰かを傷つける自覚が薄いのです。ところが正義感は時として救い主をも締め出すこともあり得ます。イスラエルに馬を飼う習慣はないので、彼らの泊ったのは家畜を飼う洞窟でした。惨めで悲惨な現実にも目を背けたい恥ずかしさの中にも、それでも救い主はそこにおいで下さいます。そうであるなら、決して孤独ではありません。ここに希望があります。

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