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第二ペテロ1章9節ー11節     

「主よ終わりまで」
ペテロは商売道具を揃えていくように、信仰に必要な資質をひとつひとつ加えていくことを勧めてきました。そうすれば、何が起こるというのでしょう。神のご用のために役に立つ者になれると約束されているのです。実を結ぶ者になると言うのです。結果が必ずついてくると保証されているわけです。神のお役に立てる生活を送ることはすべてのクリスチャンの願いではないでしょうか。

別の角度から考えてもいいかもしれません。ということは、なんの備えもすることなしに、なんの信仰のステップアップも求めもせずに、何かの役に立とうとしても無理な話だということになりましょう。良き実りを人生にもたらすこともありえないということになりましょう。当然です。なんのプロセスも経ることなく、その場その場の対応だけで結果だけ求めるのは安易すぎる都合のいい話なのです。

掘り下げてみますと、なんの準備もしようとしない人はどういう状態なのでしょうか。目先のことだけにしか目が向いていない人だと言うのです。あるいはこうも言えましょう。見ないといけない大切なものを見ようとはしないで、目をつぶっている姿だと言うことです。自分の現実を受け入れようともせず、直視しようとしていないわけです。そういう態度のままでは主のご用に間に合おうはずがありません。

具体的には自分がどれだけ重い罪を主によってきよめていただいたかを忘れてしまっているということなのです。十字架を軽視していると言ってもいいかもしれません。だから主の恵みと愛に対して応答することもできません。むしろ目の前の利益のことにしか意識がいかない。信仰をせっかく頂いたにも関わらず、生活の優先順位がおかしくなってしまっているのだと指摘されているのです。

改善する方法はあります。目の前ではなくできるだけ遠くを見つめることです。クリスチャンにとって最も遠いところとはゴールである天国でしょう。天国から逆算するようにして人生を生きるなら、おのずと優先順位も定まってくるからです。天に迎え入れられる栄光の時を待ち望む私たちである以上、最後まで主から与えられた使命を全うしたいではありませんか。主に用いられた感謝と喜びの中で人生を終えたいではありませんか。

そのためなら、意欲的にあれも備えたい、これも内に取り込みたいと言う思いは自然に湧き上がってくるはずです。この地上にしっかりと足を踏みしめながら、そのまなざしを高く愛する主のおられる天に向けましょう。そこに焦点を絞るなら、今自分がするべきことは何かおのずと見えてくるはずです。する必要のないことは何かもわかってきます。主の促しに迫られるなら、答えはきっと見つかるはずです。

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