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第二ペテロ1章16節ー18節
「最大の希望」
信仰生活とは色々な表現で言えますが、何よりも希望のある生活でしょう。中でも最大の希望が救いが完成されるイエスキリストの再臨なのです。当時は暗闇の濃い時代でした。ペテロが殉教を覚悟するほど国家による宗教弾圧の時代ですから。考えてもみて下さい。天国がなく、その天から主が帰ってこられないなら殉教ほど空しい話はないではありませんか。死でさえも奪えない希望がここにはあるわけです。
一方で最大の希望だからこそ、この希望を失わせようとする力も働くのです。実際、再臨など作り話ではないかと考え出す人々がいたのです。実際、世の終わりなどなかなか来ないではないか。そこに幻滅と諦めが働き、疑いを引き起こさせ力をそごうとします。私たちも失望にとらわれそうになるときは要注意です。み言葉が与えるものは幻滅ではなく確かな希望なのですから。
だからこそペテロは再臨が作り話ではないと反論する必要がありました。私たちは主の栄光を目撃しましたと証を語り出すのです。これは福音書で変貌の山と呼ばれるエピソードです。高い山の上で主イエスの姿が光り輝き、旧約聖書のモーセとエリヤが天から現れて主と語り合うのです。もちろん、この体験は再臨とイコールではありません。しかしペテロは世の終わりに主が帰ってこられる時の姿はあの時に似た姿に違いないと類推するわけです。
体験談ほど強いものはありません。体験したことを誰も否定することはできないからです。だからこそ教会は証という形で信仰の体験談を語ってきました。ペテロによってしか語れない証があることでしょう。同じように私たちによってしか語れない信仰の証もきっとあるはずです。主から頂いた恵みを出し惜しみしてはなりません。それは語る者と聞く者の信仰を引きあげていくに違いないからです。
愛する子とは詩編二編の引用です。これは神に選ばれた者が王として統べ治めることを歌うものです。天国があることをモーセもエリヤも証明するわけですし、何よりも主が十字架と復活を経て天に移されます。モーセもエリヤも主も地上の人生は苦難に満ちたものでした。だからと言って自暴自棄な生き方を選びません。天に移される希望があるためです。天国と再臨があることは地上での歩みをむしろ確かにしていくのです。
しょせん、この世は借り暮らしだ。適当に生きようとはならないのです。むしろ、彼らを見ていると、天国があることがわかる。再臨によってやがて世界の希望が完成することがわかると周囲の目にも明らかになる生き方が貫けます。今の時代も暗闇の濃い時代だと言えるましょう。しかし、私たちには確かな希望があります。この希望は自分のうちだけにしまっていてはいけません。多くの人に分かち合うのです。あなたもこの希望に生きませんかと。
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