見出し画像

ショートの物語─別れと未練と後悔

─2017年8月25日

その夏、母は男と旅行に行った。その間、中井塔子が料理を作りに来てくれた。

料理を食べている間、彼女は少し離れたところに椅子を置いて座った。そして緒方真琴が食事をするのを眺めた。まるでそれが仕事の大事な一部であるみたいに、とてもまじめな顔つきで。

「美味しかったですか?」

全てを食べ終えると、彼女は訊ねた。

真琴は頷く。

「料理は苦手だから心配でした」

塔子はそっと胸を撫で下ろした。それから彼女は席を立って、お茶を入れた。それを真琴が飲んでいる間に、食器を洗い始めた。

彼女の首筋は陶器のように白く、それに触れてみたいと彼は思った。ほんとうに触れることができるものなのかどうか確かめるために。でもそんなことできるはずもなかった。

「窓の外に何が見える?」

「空と海と木が見える。あとは蝉の抜け殻がいくつか」

「どこにでもある普通の風景」

「うん」

「でもそれが明日には見られなくなるとしたら、それはすごく特別な風景に見えてきませんか。そんなことを弟は考えたことがある?」

「ある」

彼女は「どんな時に?」と訊ねる。

「誰かを好きになったとき」

塔子は少しだけ微笑む。その微笑みはしばらくのあいだ口元に残っていた。

「弟は恋をしてる」

「そうかもしれない」

「その人の表情や姿は弟にとって、一日いちにちその度に特別なもので、大切なものです。そして、いつかは消えてしまう」

塔子はしばらく真琴の顔を見た。そこにもう微笑みは浮かんでなかった。洗い物を終えた彼女は、流し台にもたれ、こちらを見つめる。

「一匹の蝉が羽化しようと木の枝につかまっています。その枝は風で大きく揺れている。するとその揺れにあわせて蝉も大きく揺れることになる。そうでしょ」

真琴は頷く。

「彼らは振り落とされないように必死に木にしがみついています。いつ鳥たちに襲われるかもしれないなかで必死にしがみついて、じっと待っている。そういう人生はすごく疲れそうだと思いませんか?」

「思うよ」

「でも蝉たちはそれに慣れているんです。彼らにとってはとても自然なこと。意識しないでできること。だから私たちが想像するほどは疲れない。でも私たちは人間だから場合によっては疲れてしまう」

「塔子もどこかの枝にしがみついているの?」

「ある意味ではそうかも」と塔子は笑った。「そしてときどき強い風に襲われている」

「もし神様が幸せの定義を教えくれたら楽になれるのにね」 と彼女は言った。

そこには怒りも憎しみもこもっていなかった。含まれているのは個人的な感情ではなく、客観的な情景のようなものだった。

「理由もなにも、蝉も私たちもやることは一つ。自分という肉体の中で毎日を生きのびていく。単純といえば単純だし、難しいといえば難しい。うまくできたって、誰かに褒められるわけでもない。でもやらないといけない」

「弟はその入れ物から出ていくことは考えたことない?」

「塔子はそうしたいの?」

「‥‥ほんとうありのままを言ってしまえば、私は中井塔子という入れ物が好きじゃない。生まれてから一度も好きになったことがない。出来ることならばこんなものから抜け出してしまいたいとさえ思っている」

「それは同感。僕も緒方真琴という入れ物が気に入らない。不便か便利かで言うと、ハッキリ言って不便だ」と彼は誤魔化すように笑った。

「ねぇ弟」

それは目を凝らして深く見るというのではない。

ただ、静かに顔を向けてきた。

「私の弟」

彼女の視線は、真琴の心を不定型な哀しみに包みこみ、彼の心の輪郭を捉える。まるで空中に潜む透明な生き物の表面に、無数の細かい鱗粉が付着して、その全体の形状が白昼の下に静かに浮かび上がるように、そっと優しく。

「誰にも愛されないなら、私が緒方真琴を愛してあげる。だから─」と彼女は続ける。その声は震え、怯え、あるいは警戒していた。

「この器から抜け出してみない?」

庭の樹木の中から蝉の声が聞こえた。夏は衰えを見せ、もう彼らの声はそれほど大きくはなかった。どちらかといえば遠慮がちなものだった。蝉たちはそれを長く続かないことを知っているかのようだった。でも彼らは残された短い命を慈しむように泣き続ける。あるいは終わりかけの季節を呼び戻すために、声を響かせ続ける。

 塔子は話した。子供の頃のことや学校のことや家庭のことを話す。どれだけ自分の人生が悲惨で惨めなものだったのかを話した。どれもとても長い話だった。長いうえに異常なくらい克明な話だった。どうすればいいのか真琴には分からなかった。彼女が話したいのならば全て話させてしまった方が良いように思えたし、頃合いを見てどこかで止めた方が良いとも思えた。彼は迷ったが、彼女の話を止めることにした。いつもなら、彼女が話疲れるまで耳を傾けていた。しかし母の帰宅の時間も迫っていた。彼女たちが鉢合わせてしまうことだけは、どうしても避けたかった

「塔子は疲れてるんだよ。学校や受験のことで」と彼は言った。

「もう今日は遅い。また明日ゆっくり話を聞かせて」

言葉の真意が彼女に伝わってたのかどうかはわからない。でも塔子はほんの少しのあいだ口をつぐんで、またすぐに話し出した。それでもう真琴は諦めて何も言わなくなった。こうなれば、もう塔子を止めることはできない。たくさん話してもらって、あとのことはもうなりゆきに任せるしかなかった。

真琴は窓の外に広がる夏の残像をメモ用紙に描き始めた。久しぶりに、彼は風景画を描いた。塔子と出会ってから、彼女の肖像画ばかりを描いていた。しかし個人的な才能なら真琴は風景画の方が向いていた。だから彼は自分の才能を試すように、外に広がる夏の残像を描いた。ベランダに見える残された蝉の抜け殻は、白い糸が出ているように見えた。それは彼の気の所為だったかもしれない。しかしそれを確かめる術はなかった。

ふと気付いた時に塔子の話は終わっていた。唇を微かに開いたまま、ぼんやりと真琴の目を見ていた。彼女は口を微かに動かしはするが、言葉には現れないそこにはもう何もなかった。

真琴は、自分がひどく悪いことをしたことに気付いた。

「無視していたわけじゃないんだ」

一言ひとことを確かめるように言った。「絵を描けば喜んでくれるかなって思ったんだ。ごめん、悪かったよ」

塔子の目から溢れた涙が頬を流れ、テーブルの上に音を立てて落ちるまで一秒もかからなかった。彼女は呆然と立ち尽くす。自分の手のひらを見つめる。見つめて、そのまま顔を塞いだ。そして吐き出すように泣き始めた。

白く美しい指先は傷だらけだった。赤切れて指に何枚も絆創膏が貼られていた。不安があると彼女は指先の皮膚を剥いた。だからいつも炎症を起こしていて赤く腫れている。

真琴は彼女の肩を優しく抱きしめた。熱い吐息と涙でシャツが濡れる。彼は彼女の背中をさすった。いつもは、それで泣き止んでいた。でもその日は彼女が泣き止むことはなかった。

「真琴には好きな人がいるのにごめんなさい」

と彼女は息を吸い込み、目を細めて笑った。

「そんなこと気にしなくていい」

「私、弟の描く絵が好き。懐かしい気持ちにさせてくれる。きっと弟はその絵で多くの人を救うんでしょうね」と塔子は言った。

「人にはそれぞれ決められた運命がある。弟の運命は絵を描くこと、そして私の運命は逃げること。この二人の運命は決して交わることはない。かけ違えたボタンみたいに、絶対にね」

部屋を出ていこうとする塔子は「最後にひとつだけ聞かせて」と言った。

「真琴は寂しくないの?」と道に迷った子供のような声で訊ねてきた。だから道を教えるように説いた。

「寂しくないよ」

うそつき、と彼女は微笑んだ。


─2022年7月15日

夜の渋谷駅は寂しい人間で溢れている。あたしもその一人。酔い潰れてスーツ姿のままアスファルトに寝転がる。ひんやりと冷たくて、頬の火照りを感じた。

明滅する光を瞼越しに感じる。街中を包むネオンの光のせいだ。そんなメタリックな光に溺れそうになる。瞼の層をくぐり抜けたわずかな光が、遠い記憶の名残のように辺りを白く照らす。自分が知らないうちに死んでしまったような感覚になった。

この夢を見たということは、夏が訪れたということ。そして、死に近づいているということだった。

毎年、夏になると死の間際をさすらう。約1ヶ月近くのあいだに体重が10キロ落ちる。裸になると肋骨が浮かび上がり、安物の鳥かごみたいになる。それでもあたしは辛うじて死の入口で立ち止まり、底なしの暗い穴の縁にささやかな居場所をこしらえ、そこで時間が経つのを静かに待つ。それがあたしにとっての夏だった。

駅前で倒れていると大衆の視線を集める。仰向けになっているあたしの横顔や肩のあたりに、じっと大胆な視線を投げかけている。そろそろ此処から立ち去らないといけない。でも行先が思い浮かばなかった。

駅前では、トラックの排気口の前に立ったような、不快な風が絶え間なく吹きつけ、アスファルトは日中に溜め込んだ熱を延々と吐き出し続けていて、歩道は香水と嘔吐物が混ざったような匂いが立ち込める。行き交う人たちは酔払いやヤクザやら、顔中にピアスを開けた女やら、その他わけのわからない種類の人間が次から次へと通りを歩いていく。

ハチ公前で、大音量で音楽をかけて店の前で何人か集まって踊ったり、シンナーを吸ったり、眠そうな目をした女子学生が行き交う男たちに声をかけたり、どす黒い顔をした浮浪者がゴミ袋を引きずりながら歩いている。

10分おきに救急車やパトカーだかのサイレンが鳴って、中年の酔っぱらった二人連れのサラリーマンは道端で潰れている女の胸やスカートに手を突っ込んで楽しそうに笑い合っている。

そんな光景を見ていると、頭が可笑しくなりそうになる。何が何だか分からなくなってきて、いったいこれは何なのだろう、と思った。いったいこれらの光景に何の意味があるのだろう、と。

あのとき死んでおけばよかったのかもしれない、とあたしはよく考える。そうすれば今ここにある世界は存在しなかった。それはとても魅力的なことに思えた。

私達の物語は終わりをすでに終わりを告げている。それなのにあたしは、その物語から卒業できていない。エンドロールが流れ終わった映画館で一人だけ座席から立ち上がれないでいる。周りの人間は満足した様子で出口に向かうのに、その結末に満足できなくて、今も真っ暗な上映室に一人座っている。ずっとここで待っていれば、続編が流れるんじゃないかと有り得もしない微かな希望に望みをかけている。  

もし、こうやって苦しむあたしの目の前に、あの人が姿を現して、静かに微笑んでくれたら、それだけでハッピーエンドを迎えられるのにな。

空中でバッっと音が鳴った。目の前に何が落ちた。見ると、そこに死に絶えた蛾がいた。暗い蒼色の中に白い斑点が羽根に浮かんでいた。どうやら彼は、街灯の光に焼き殺されてしまったのだ。

バカな奴だと思った。でも暗闇の中に一筋の光が現れたら誰だって手を伸ばす。それが例え偽物でも見る人にとって本物以上の価値がある。希望という名の光に私達はいつだって狂わされる。

「なぁ、君は自分が死ぬことを分かってても、光に飛び込んだのか?」

触れるか触れないかというほどにそっと彼を撫でてみた。頭から尻尾の先まで、体はいともたやすく片手の中に隠れた。水の一滴よりも小さく、けれど彼の瞳には、申し分のない街の光が広がっていた。手のひらに鱗粉がびっしりとにつく。そのフツフツとキラめく光の粒を見つめた。右手を目の前に広げ、そこに何かしらの暗示を見出そうと努めてみた。しかし手のひらには、いつもと同じ何本かのシワが刻まれるだけだった

そうこうしているうちに酔いが回って、次第にアルコールで脳が犯されているふわふわとした感覚が心地よくて、それは夢の中にいるような錯覚を助長させた。そのうちあたしは本当に夢の中にはいっていた。

夢の中では、相変わらず黒髪の少年が間近にいた。彼はあたしの顔を覗き込んだまま、静かに微笑んでいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?