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円坐に向けた言葉

今年、2023年の春、前回の円坐から2年半の月日を経て、橋本さんと久しぶりの再会、そして円坐を開きました。

〈橋本久仁彦〉
日本人の存在感覚に根差した口承即興舞台「きくみるはなす円(縁)坐舞台」を実践する「有無ノ一坐」坐長。
1958年大阪市生まれ。大学卒業後は高校教師となり、アメリカの心理学者カール・ロジャーズが提唱したパーソン・センタード・アプローチに基づく「教えない授業」を10年間実践する。その後アメリカやインドを遊学し、人間同士の情緒的なつながりや一体感とともに発展する有機的な組織作りと、エネルギーの枯渇しない自発的で創造的なコミュニティの建設に関心を持ち続けている。
平成2年より龍谷大学学生相談室カウンセラー。様々な集団を対象とした非構成的エンカウンターグループを行う。平成13年12月に龍谷大学を退職、プレイバックシアタープロデュースを立ち上げ、プレイバックシアター、エンカウンターグループ(円坐)、サイコドラマ、ファミリー・コンステレーション、コンテンポラリーダンスなど、フィールド(舞台)に生じる磁場を用いた欧米のアプローチの研究と実践を積み重ねるも、10年間の活動を終え、その看板を下ろす。

それまで毎年、橋本さんと円坐をともにしていたこともあり、橋本さんとお会いしないこの2年半の時間は、とても長く長く感じられる時間でした。

娘が生まれたことも合わさり、妻と二人だけだった暮らしが一変し、まったく新しい生活、新しい日々になったことも、長く長く感じた一つと思います。

最寄り駅に橋本さんを向かえに行き、改札前で待っていたところに橋本さんの姿が見え、2年半ぶりの挨拶と握手を交わした際は、思わず涙が出てきてしまいました。

それぐらい僕にとっては、橋本さんは大きな存在です。

僕はもともと人と関わるのは苦手だからパソコンに向かう仕事がいいと思い、就職活動でエンジニアの仕事を選んだ、そんな人間でした。

でも、その6年後、人と関わることの面白さに目覚めてしまい人事に転職、ファシリテーションやコーチング、対人スキルなどを学び、対話の場やワークショップなどを企画する仕事に進みます。

しかし、そのような場にたくさん参加していく中で、スキルだけで向かってこられることへの苛立ち、人の話を親身に聞く態度なく「対話、対話」と連呼する人たちに嫌気がさし、本物の人間関係を求めて歩いていた先に、橋本さんと円坐に出会います。

〈円坐とは?〉
円坐守人の呼び掛けの言葉に呼応して、定められた場所と刻限に寄り合った坐衆(参加者)が、ただ円に坐り成り行き(道往き)を共にすることです。円坐守人は、円坐の呼び掛け人であり、円坐の坐衆の一人でもあります。円坐守人の役目は、円坐の場所と刻限の決定(結界)を尊重し、「円坐」という出来事(アラハレ)に目を見張り、話し手の言葉(事の端)に耳を澄ませ、円坐守人として自らに約束した「聞く」という道を果敢に辿り、刻限まで円坐(坐衆)と共に在ることです。

そこで体験した本気の、本物の、真剣な人と人の関わり合いに感動し、円坐、そして未二観、影舞へと魅了されました。

円坐に参加したあとは、心に刻まれたものが膨大過ぎて言葉になりません。

橋本さんが話してくれる話も興味深く、心の中でうなずきっぱなしの自分がいました。

そして、自分でも円坐の守人を始めます。本物の人間関係、本気の、本物の関わり合いを求めて。

でも、その先にあったのはまったく予想外の自分でした。

最近の橋本さんが書いた言葉に以下のような内容がありました。

傷つき、傷つけることを恐れて他者と自分に踏み込まず、現実から遊離して作為の情報世界を漂う現代人は、死によっても破壊されない永続する人間関係を「切り結ぶ」ことが出来なくなりました。それゆえ多くの人々が死ぬことを恐れています。

橋本久仁彦メールマガジン「等覚院 不動尊ご巡業 遠方出立祈念円坐舞台に寄せて」

橋本さんに出会った当時は、僕が対話の場で苛立ちを感じた人たちこそが「人間関係を切り結べない」人たちであり、僕は「切り結べる」人間だと思っていました。

しかし、円坐に坐り、様々な人たちと出会い、互いを交わし合う中で見えたのは、僕自身こそが「人間関係を切り結べない」人間だったという事実です。

「互いを交わし合う」と書きましたが、交わせてなどいませんでした。肝心なところで交わし合いを避ける。逃げる。誤魔化す。

傷つくのも怖い。傷つけるのも怖い。

本気の人を目の前にし、その人にも自分にも踏み込まずに取りつくろう。そのうち、言葉そのものが減り、傍観することが増え、守人として坐ったにもかかわらず、「坐衆ですらない」と言われたこともありました。

あんなにも共鳴し、共感し、感動し、自分の理想であり希望だった、守人という在り方。聞く度に、読む度に、自分の中に光が灯り、血が沸き立つような、円坐の理念。

今でも、同じように自分を奮い立たせてくれる感動はあるのですが、それと同時に、自分はそこにいない、自分のことではない、怖くて踏み込まず、傍観し続けた自分を思い出し、友人に否定され呆れられた景色が脳裏に浮かび、なんとも言えない気持ちになる。

そんな日々が1年、2年と続きます。

そして3年前に娘が生まれ、生活が変わり、円坐からしばらく離れることになりました。円坐から離れたこの数年で何が変わったということもないのですが、これまでのことを振り返り、自分の姿を見つめて思ったことは、どこまでいっても、何をしようとも、結局自分は自分のまんまなんだなという、諦めのような、開き直りのような、そんな心境に今はあります。

以前、橋本さんに「僕を目指しても、分かるのは僕になれないことだけだよ」と言ってもらったことがありました。

まさにその通りでした。

円坐が怖い、踏み込むのも怖い、踏み込まれるのはもっと怖い。橋本さんが語る守人の姿とはほど遠い。でも、それでもやっぱり円坐に坐りたい。人と相対したい、そんな自分がいます。

この数年間の心境を綴ったこちらの文章を、円坐への言葉とさせていただきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

寺家ふるさとのengawa円坐 世話人兼守人 中尾聡志


〈詳細のご案内〉

日時:
①2023年11月10日(金)10:00〜16:30
②2023年11月11日(土)〜12日(日)通い

1日目 10:00集合、10:15会場へ移動
   10:30〜17:30 円坐
2日目 10:00〜17:00 円坐
※途中1時間のお昼休憩を取ります。
※お昼ごはんをご持参ください。近隣にお弁当購入できるお店がありませんので、バス乗車前に駅などでご購入下さい。
※乳幼児がいます。

会場:「里のengawa」の「はなれ」「いろり庵」
〒227-0031 神奈川県横浜市青葉区寺家町337 https://satonoengawa.com/

【東急田園都市線】
①青葉台駅よりバス(青30【循環】寺家町行)で「寺家町」下車徒歩4分
②青葉台駅よりバス(青31 鴨志田団地行)で「鴨志田団地」(終点)下車徒歩8分

【小田急線】
③柿生駅よりバス(柿25 [循環]柿生駅北口行)で「寺家町」下車徒歩4分

定員: 各12名
参加費: ①11,000円 ②22,000円

お申込み: 下記フォームよりお申込みください。
https://forms.gle/H4swZJ1vb97fDHXJ6

円坐守人: 橋本久仁彦
世話人: 中尾聡志、中尾絢子
元気モリモリ人: 咲遥、藍奏

お問合せ: ordinaryworld0420@gmail.com(中尾)


〈橋本久仁彦さんプロフィール〉
1958年大阪市生まれ。大学卒業後は高校教師となり、アメリカの心理学者カール・ロジャーズが提唱したパーソン・センタード・アプローチに基づく「教えない授業」を10年間実践する。その後アメリカやインドを遊学し、人間同士の情緒的なつながりや一体感とともに発展する有機的な組織作りと、エネルギーの枯渇しない自発的で創造的なコミュニティの建設に関心を持ち続けている。平成2年より龍谷大学学生相談室カウンセラー。様々な集団を対象とした非構成的エンカウンターグループを行う。平成13年12月に龍谷大学を退職、プレイバックシアタープロデュースを立ち上げ、プレイバックシアター、エンカウンターグループ(円坐)、サイコドラマ、ファミリー・コンステレーション、コンテンポラリーダンスなど、フィールド(舞台)に生じる磁場を用いた欧米のアプローチの研究と実践を積み重ねるも、10年間の活動を終え、その看板を下ろす。現在は、日本人の存在感覚に根差した口承即興舞台「きくみるはなす円(縁)坐舞台」を実践する「有無ノ一坐」坐長。

教師やカウンセラーとして生涯手掛けてきたミニカウンセリングは、位相を進めて「未二カウンセリング(未二観」となり、円坐は同じく「円空坐」となり、縁坐舞台も「縁起の坐舞台」と成って様式が整い、近年輪郭が明らかになった「影舞」と合わせて、生死・顕幽の境を超えて不生不滅の景色を展望する四つの終の仕事となった。仲間も変遷し、この頃は生死を共にする有縁の仲間(一味)と連れ立って、毎日がこの世の名残りの道行である。

高野山大学スピリチュアルケアコース講師。円坐舞台守人。影舞人。


〈円坐とは〉
円坐とは、円坐守人の呼び掛けの言葉に呼応して、定められた場所と刻限に寄り合った坐衆(参加者)が、ただ円に坐り成り行き(道往き)を共にすることです。円坐守人は、円坐の呼び掛け人であり、円坐の坐衆の一人でもあります。

円坐守人の役目は、円坐の場所と刻限の決定(結界)を尊重し、「円坐」という出来事(アラハレ)に目を見張り、話し手の言葉(事の端)に耳を澄ませ、円坐守人として自らに約束した「聞く」という道を果敢に辿り、刻限まで円坐(坐衆)と共に在ることです。

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