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新しい孤独

最近、ぼくが経験し言葉にしているある「孤独」について書いてみたい。


ぼくが最近経験している「孤独」な時間は、時が止まるのだ。


ぼくが孤独を感じているこの体験の時間は、時間が時計の針が進むようには進まない。ぼくの生きている何かとぴったりくっついて、ただぼくのままにいる。時間がそこにいるだけになる。時間はただそこにあるだけになる。


ただあるだけになった時間は、場所としての存在感と同一なものとなる。だからぼくが時間があると感じている存在感は、そのまま、場所の存在感になる。


ぼくが孤独を体験しているその時間の間、その場所はただそこにあるという感覚になる。いや逆に普段から場所という、ずっとそこにあるだけだったものが、孤独の時間に入ったとき、存在感を持ったとき、さっきまでただあるだった場所が、時間のように流れだすとも言える。場所が躍動し始める。


場所が時間になったとき、場所は存在性を放ち、生き生きとしてくる。場所は、ただ物理的な建物や、壁や床のことではなく、逆にその壁や床や天井に囲まれた何もないところをも含めた場所である。そこに差し込んでくるもの、窓からの光、洗濯物を揺らす風、生活感を感じさせる家具、台所の食器や調理器具、、、場所に置かれたものも、場所が時間になったことで躍動をし始める。


そこにはそれぞれの存在感が、誰かの存在感として迫ってくる。ぼくが孤独になると、周りが躍動し始める。そんなにも周りのものが躍動しているのに、なぜ僕は孤独なのかというと、ただまだ僕がこの体験に感じる感覚を孤独としてしか言えないからだ。


時間がただあるだけになり、場所が流れ出すこの時空間は、今まで僕を規定し支えていた何かがすっかりどこかに行ってしまうのだ。


でもその僕を規定し支えていたものは、もしかしたら僕の躍動をずっと昔から押さえつけていたものかもしれないのだ。

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