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白内障手術備忘録

2021年がもうすぐ終わる。

ふと振り返ると1月、予定していた故郷・新潟での写真展開催中止に始まり、耐える一年だったと思う。

その中で、まさか自分が人生初入院・手術を経験するとは思ってもいなかった。これまで健康であった体が、そうで無くなる。自分が病人となって健康であることの大切さはもちろん、様々なことに気付かされた。

一年最後の日でもあるため、10月の白内障手術について備忘録としてつらつらと綴りたい。

ふとした異変

それは9月の半ば頃。朝、目を覚ますと今までとは違った感覚に襲われた。目を開け天井を見たとき、視界がぼんやりとぼやけているように見えた。例えるなら、一眼レフカメラがずっとピンボケになっている感覚。

「あれ・・・こんな事今まであったっけ?」

予兆は確かにあった。太陽が逆光の状態だとまぶしかったり、夏場の日中、外出するときはサングラスが手放せなくなっていたり、文字が見えづらくなっていたり・・・。視力が落ちてきているのかと思った。

異変を感じる中で、日常生活の中で様々な不自由が生まれてきた。スマホをピンチアウトしないと文字が見えなくなり、外出してみると道の端に体をぶつけてしまう。一度、歩道を歩いているつもりが車道に出てしまい、危うく交通事故に巻き込まれることもあった。しまいには歩道にある点字ブロックを頼らないと歩けない状況に。

さらに夜はもっと怖さを感じた。信号機や走っている車はネオンで認識できるとはいえ、真っ暗で周囲が何も見えない。時には歩き慣れた道なのに、どこを歩いているのか分からない有り様だった。杖代わりに傘を使い、道がどうなっているかを確認しなければならない。明らかにヤバい状態だ。

これは絶対にマズいと感じ、近所の眼科に行くことを決めた。通常ならばスマホで検索して近所の眼科を探すのだが、目が見えない状態のため検索ができない。仕方なく近所の区民センターで「この近くの眼科はどこにありますか?」と聞くしかなった。

何とか近所の眼科に辿り着き、検査を受けた。診察で医師は僕にこう告げた。

「両眼とも白内障で、手術をしないと治りません」

白内障・・・今まで聞いたことはあったが、どんな病気かは詳しく分からなかった。それよりも「手術」の言葉がズシリと体に響いた。

白内障とは?

白内障は簡単に言えば眼の中の水晶体が白く濁り、それによって目が見えづらくなる病気だ。

一般的には60代、70代の高齢者が加齢により掛かることが多い。しかし、アトピー性皮膚炎が持病としてある場合、若い世代でも掛かってしまう。僕の場合、これに該当していた。

顔のかゆみで目を強くこする、塗り薬でステロイドを服用する。特に影響で考えられたのは一つの「癖」だ。僕は一人でいる際、特にストレスが溜まっている状態になると目の周辺を手でパン、パンと強く叩く癖がある。20代に入ってから始まり、ずっと続いていた。その結果、知らず知らずのうちに白内障に蝕まれていったのだ。

実は右眼の方は数年前から白内障の症状(後になって気付く)が出ていた。ちょうど高校野球部の撮影で逆光の中30分以上も撮っていたため、その影響で視力が落ち始めていたと思い込んでいた。しかし、よくよく考えるとその前にステロイドの塗り薬を服用していたことを思い出す。

医師からは「紹介状をすぐ書くから明日行ってきなさい」と2つの大学病院を薦められた。前者は同じ区内だけれど、手術は最悪1月くらいになるとのこと。後者は少し離れているが早い段階で手術は受けられる。僕は迷わず後者を選択した。

翌日、紹介状を持って大学病院へ。近所の眼科とは比べ物にならないほど施設が整っており、様々な検査を受けた。検査後の診察にて医師からは「やはり手術しないと治らない」「もしかすると網膜剥離の恐れもあるかもしれない」と言われた。一つ一つのフレーズに、何か力が抜けていく。

院内を歩くときはヘルパーさんの助けがないとどうにもならない状態だった。また翌週、検査で病院へ行くことになったが帰りのバスの車中、色々なことが頭をよぎる。

「カメラマンなのに眼を手術なんて・・・」「もう写真撮れないのかな?」「仕事復帰できるのかな?」「どうしたら良いんだ・・・」

考えつくのはネガティブなことばかり。テレビ、スマホ、パソコンは見ることができないため、自宅ではひたすらラジオを聴く日々・・・。そのラジオの内容も頭にあまり入らず、空虚な日々が続いた。

目が見えない中、ふとしたことで人の優しさに触れた。病院の行き帰りでバスに乗る際、「乗り場分かりますか?」と見知らぬ方が声を掛けてきて、バス乗り場まで連れて行ってくれた。思わず涙が出そうになった。スマホは電話帳で音声検索ができたため、近しい友人や知人に電話を掛け話を聞いてもらった。中でも「眼の強化手術を受けると考えたら良いじゃないか」という言葉にとても勇気付けられた。次の検査までの10日間弱、何とか気持ちを保つことができた。

入院、そして手術

翌週、検査で再び病院に。一通り検査が終わり診察室へ入る。検査結果について医師から「左眼が少し膨れている。すぐ手術する必要があります」と告げられる。早い分には越したことはないとその日のうちに入院、翌日手術となった。通常の白内障手術は日帰りでできるものでもあるが、「手術前日と翌日、しっかりと入院して万全を期したい」ということで3日間の入院が決まる。ただし、眼の白い濁りを除去して網膜を検査した際、異常があれば入院は延長される。

そこから一気に慌しくなった。入院についての説明、レントゲンや心電図、血液検査といった入院前検査、病棟に移っての入院手続き・・・このときの記憶はあまりない。手術前夜、「目がまた見えるようになる」という期待と「最悪、網膜剥離だったらどうする」という不安。その2つが行ったり来たりする中で夜を過ごした。

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白内障の手術は「超音波水晶体乳化吸引術」で行われた。点眼と注射による局所麻酔で、痛みは麻酔注射を受けるときにチクっとするくらい。意識がありながら手術を受けるのは不思議な感覚だった。

左眼水晶体にあった白い濁りが吸引によって徐々に取り除かれていく。するとぼんやりとではあるが見えなった視界が次第に見えてくる。眼底の方も見たところ、網膜に異常はない。人口レンズが付けられ、最後に眼帯をして手術は終了。約30分の手術だったが、時間がとても長く感じた。

翌朝には眼帯が取れたが、手術翌日のため左眼は真っ赤で周辺がちょっと重たい状態。視界は見えてはいるけれど安定していない。それでもまた見えるようになった。それだけでも「生き返った」という気持ちになる。右眼の手術はまた改めて、という形となり、退院して帰宅。帰宅までの風景が今までとは違い、はっきりとクリアに見える。

10月上旬の左眼手術に続き、下旬には右眼を手術した。一度手術した影響なのか、精神的には大分落ち着いて手術に臨むことができた。幸いにも右眼も網膜には異常なく、両眼とも最小限の手術で済んだ。

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左眼の手術後、病院内にギャラリーがあることに気がつき、退院の際に立ち寄ってみた。ちょうどその頃は絵画が展示されていて、一つ一つの絵に見入る。絵画を見ていくうちに、何だか穏やかな気持ちになっていく。ふと、以前取材した「アスリートの笑顔展」のことを思い出した。

入院、手術を経験したことで「アスリートの笑顔展」の意義をようやく理解できたような気がした。少なからず病院では患者さんはもちろん、医療従事者も何らかのストレスを抱えている。そのストレスを和らげるものこそ絵画だったり、笑顔の写真だったりするのではないか。もし入院、手術をしていなかったら、なぜ病院にギャラリーが必要なのか心底理解していなかっただろう。これは大きな発見・気付きだったと感じる。右眼の手術を終えて退院した日、外は秋晴れで雲一つない晴天だった。「こんなに青空が綺麗だったとは・・・」。思わず青空をスマホで撮影したくなった。

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手術、その後

退院後は1日4回、3種類の目薬の点眼がルーティーンとなり、12月になってからは朝、晩の2回に変わった。病院での検査も近所の眼科に変わり、月1回術後検査として通院している。仕事の方も11月中旬から徐々に復帰し始めた。「今までとは違った写真が撮れるかもしれない」。そんな思いも持ち始めている。

でも、まだ100%ではない。できるだけ目を濡らさないため、たくさん汗をかいたり激しい運動をすることは禁止。元々サウナが好きだったけれど、術後の感染症のリスクが高まるため控えているし、アルコール類も発汗作用があるため全く飲んでいない。

目がぼやけ始めてから手術を受けるまで、目が見えないことがこれほどまでに大変だと痛感した。いや、痛感というよりも人生に関わる大問題だ。まして目が仕事の商売道具となるため、これまで以上にケアをしていかなければならない。僕にとっての2021年の漢字一字は「眼」になるだろう。来年、2022年は巻き返す、逆襲の一年にしたい。


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