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『差別のない社会を作るインクルーシブ教育』を読んで考えたこと

こんにちは、さとちゃんです。

「インクルーシブ教育」って聞いたことがありますか?
私は数年前、乙武洋匡さんのvoicyで初めて知りました。
簡単に説明することは難しいですが、マイノリティーの方も同じ社会で時運らしく生きられるよう、教育現場も分けずに一緒に活動していくやり方、といったところでしょうか。
ここでいうマイノリティーは障がいだけでなく、貧困や、ジェンダー、いじめ等々様々なものに対してです。

私の娘たちにはちょっとハンデがあります。
長女は生まれつき脳室周囲白質軟化症という脳性麻痺が少しだけあり、1歳7か月になるまで自分の足で立つことができませんでした。
次女は生まれつき心臓病等があり、通院中です。
彼女らの病名を聞いて、どのような状態で、何ができて、何ができなくて、知的発達は?、普通の学校に通える?など、思われたでしょうか?

長女も次女も、一見健常者です。
日常生活で困ることはほとんどありません。
長女の場合はちょっとバランス系の運動が苦手です。
その程度です。
では、これはハンデではないのでしょうか?
私は、障がいというハンデは白から黒のグラデーションのようになっていて、障碍者手帳のようにははっきりと線引きできないと思っています。

みんな人それぞれ、苦手なことやできないことがあり、周囲の方に助けてもらいながら、またはぐっと我慢して、隠して、あたかも健常者かのように振舞っているのではないでしょうか?

また、日本ではまだまだ小学校からは障害の程度によっては学校を分けてしまうので、教育を受ける期間にハンデを持った方と共に過ごすことがあまりありません。
それぞれの程度に合わせた支援が受けられる学校で過ごしたほうが、健常者側から見たら効率が良いのかもしれませんが、私は反対です。
なぜなら、学校を出て子どもたちが大人になって社会に出たとき、こそは健常者と障がい者が分かれた世界ではないからです。
現在、一定数以上の社員をもつ会社には障碍者を雇用しなければならない義務があります。
障がいについて何もわからない人が、採用し、一緒に働くってうまくいくわけがないと思います。
一緒に過ごしていないのに、別れて生活してきたのに、分けて学んでいたのに、障がい者が何を求めていて、また何を求めていないのかわかるでしょうか?

「差別をしない」「助け合い」「バリアフリー」なんて言葉が健常者の目線で言われていますが、そこに障がいを持った当事者がいないように思います。

健常者が悪いのではありません。
「分けて教育を受ける環境」が悪いのです。
自然と知る機会が失われているのです。
もっともっと一緒に過ごす時間があれば、お互いがよくわかり、みんなが暮らしやすい社会に近づくと思いませんか?

私は「インクルーシブ教育」について、とても素敵な取り組みだと思い、少し理解を深めたい思いでこちらの本を読みました。

「差別のない社会を作るインクルーシブ教育」
学事出版 野口晃菜、喜多一馬 編著

こちらの本は何かインクルーシブ教育についての正解が書かれている本ではありません。
答えのない問題を考えるために、当事者や先生の思い、取り組みが書かれています。

特に先生と生徒のジェンダーに対する課題解決へ導く取り組みは興味が持てました。
長女も1年生になったと同時に「〇〇君」「〇〇ちゃん」から主に「〇〇さん」と変化したからです。
恥ずかしならが、単なるいじめにつながるあだ名禁止かと私は思っていたのですが、この本で子供たちが「「〇〇さん」ってみんなをよんだら?」と提案していたからです。

長女が学校であったことを話してくれる時、「〇〇さんがね、」と話すのでついつい私の頭の中は「男の子?女の子?」と考えていましたが、私に必要なことは性別を知ることではなく、ジェンダーについての価値観をアップデートすることでした。

この本で出てきたように、悪気なく、意識なく自分の差別的な価値観が人を傷つけているということにもう少し敏感になろうと思いました。
また、子どもへの何気ない声かけでも、親の価値観が子どもへ伝わることもドキッとしました。

こちらの本は教育者ではない、ごく普通の親御さんにもお勧めです。
子どもへの声掛けを意識するようになりますよ。


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