中野駅。

 私と相方が組んでいたお笑いコンビの活動は、大阪から東京へ上京したその日中に既に終わっていたのかもしれないと今では思う。

 住む場所どころか住みたい地域まで一切何も決めずにその身一つで上京した私と相方。世間知らず甚だしい我々のことを東京で最初に出迎えてくれたのは、中野駅最寄りの賃貸不動産の担当者『中野さん』だった。駅名と名前が一致する完全な偶然である。

 中野さんは、夜行バスに十時間揺られて遥々やってきた寝不足で不愛想な私たちのことを詐欺師のような満面の笑みと丁寧な言葉遣いで迎えてくれた。だが「ご希望のお部屋の条件は?」という質問に対して「今日中に住める家をお願いします」の一言を私が発言した瞬間、中野さんはそれまで前のめりで未使用だった椅子の背もたれに全体重を乗せて「マジか」と本音を発して天井を見上げた。中野さんはそれを皮切りに、今度は竹を割ったぐらいにさっぱりとしたタメ口で我々と話すようになってしまった。
 態度を変えたことが勘に触ったようだった相方は「お兄さん年いくつ?」と敵意丸出しで中野さんへ尋ねた。たかが二歳差ではあるが、一応年上であることが分かると「あ、そうですか」と大人しく引き下がってしまう小心者の相方。
 その後はまるで不登校児の学校復帰を後押しする担任教師のような熱量で我々の非常識さをつらつらと並べ立てて述べた中野さんだったが、ものの五分ほどで言いたいことは全て言い尽くしてしまったようで、その後は互いに気まずい無言の時間が生まれた。その間、自身の非常識と恥ずかしさで下を俯くしかなかったのだが、目線だけで様子を窺うように中野さんの方を覗き見ると、彼は椅子にふんぞり返って偉そうに腕組しているものの両目を力強く瞑って悩んでいるようだった。

 中野さんが年上だと分かってからは借りてきた猫のようにおとなしい相方を横目に私はため息をついてしまったが「わかった! なんとかしてみるよ」と気立ての良い一声で物件探しを引き受けることを中野さんは決意してくれた。私にはその時の彼が神様のように見えた。
 中野さんの心意気に応えるべく、私は希望物件の詳細を彼の案内に乗っかって一つずつ答えていくことにした。しかし、既に引っ越し業者との契約を結んでしまっている上、荷物の搬出は済ませており、指定した搬入日がたった二日後であるという事実を告げた時には、中野さんもさすがに机の上へ力なく突っ伏して苦笑いをするしかないようだった。上京前の二年間を実家でぬくぬくと過ごしてきた相方とそこで居候させてもらっていた私は、世間知らずにも程があった。

 中野さんの人脈をフル活用しても、我々二人の願望に当てはまる物件は中々見つからなかった。一度昼休憩を挟むことになり、外へ出た私と相方は中野の街を初めてゆっくり眺める機会を得た。

 その時私は空腹に耐えかねていたのだが、一応気を利かせて「なんか食いたいもんある?」と相方に尋ねてみた。だが「いや、腹減ってないし」と無表情でハッキリと言い切る相方の返答が私の神経を逆なでしてくる。夜行バスの移動で互いに寝不足で機嫌が悪かったのだろうが、普段ならスルー出来るようなこともその時はやたらに腹が立ってしまい、どうにか怒りを抑えようと専念するばかりだった。そのせいもあって上京初日は中野の風景を堪能する余裕など一切なかった。元々まばらだった二人の会話も、ある高層マンションの屋上庭園を指差して相方が発した「ラピュタじゃ」のくだらない冗談を最後に一切断ち切られてしまった。

 一人で飲食店に入るのも悪いなと思い、仕方なくコンビニおにぎりを買って腹を満たすことに決めた。私は道路沿いの縁石の隅っこに座っておにぎりを虚しく貪るしかなかったが、2015年1月初週のこの時期では幾ら晴れた日の昼間とはいえ寒さが身に染みて、今自分が何味を買って食べているのかが曖昧になってしまうぐらいに身体が震えていたことを良く覚えている。

 おにぎりを咀嚼している途中で中野さんからの着信があったので、相方に携帯を渡して代わりに用件を聞いてもらった。
 相方は「審査に時間がかからない荻窪の物件が一軒だけ見つかった」「物件見学に行くので、一時間後に不動産まで来て下さい」という中野さんからの連絡を聞き終えて電話を切ったようだったのだが、何故か相方は「さあ、高円寺へ行こう」と、中野さんから一切言われてないトンチンカンなことを私に伝言した。
 中野さんからの電話の要件は高円寺へ向かう道中で「ああ、そういえば」の前置きのあとに、ようやっと私まで正確に伝言される始末。高円寺へ向けて歩き始める前の時点で既に感情は無だったのだが、内心で「こんなヤツとコンビ組んだらあかんかった」と心底後悔していた。ちなみに相方がこの時どうして高円寺に行きたかったのか、理由を徒歩で片道15分掛けて歩いている最中に尋ねると「東京に来たライブ感を感じるためや」とのこと。「マジで死ねや」と思った。

 中野さんの努力の甲斐があり一軒だけ見つかったこの荻窪の物件に即決した為、その日中に入居できただけでなく、その日中で大家さんとの顔合わせまでも終えることができた。とはいえ、物件見学を終えて車に戻った直後に「もう俺はどこでもええねん」と相方から投げやりな発言をされた時には本当に手が出そうになってしまって、車中では私一人だけが深刻な面持ちで沸きあがってくる衝動を抑えることに全集中していた。結局私も、半分投げやりな気持ちで「ここにします」と歯を食いしばりながら決めてしまったが、心の底では「こんなヤツとは住みたくない」という本音を押し殺して強引に決めていた。

 しかし今思い返してみると、荻窪駅まで徒歩25分、2K、7万6000円で風呂がバランス窯なのはいくら何でも高すぎた。『その日中入居希望』という我々が指定した条件が非常に厳しいものだったとはいえ、さすがに中野さんの掌で転がされてしまった感がある。実際、探せば他にも幾つか候補はあったはずだから。

 それでも中野さんは夜も二十一時近くなっているにも関わらず、新居まで車で送ってくれたし、大家さんに至っては真冬の時期に寝具も何もない状態の我々の事を気にかけてくれて、隣の自宅から毛布を二枚持ってきて貸してくれたので本当に感謝している。一方相方は、翌朝私の部屋まで鼻息荒くやってきて「大家が持ってきた汚い毛布のせいでくしゃみと鼻水が止まらんぞ」と一言吐き捨てて私の部屋に毛布を投げ込むと、襖戸をピシャンと乱暴に閉めて不機嫌なまま自室へ帰っていった恩知らずである。

 この荻窪の物件には更新までの二年間住んだ。二年間で相方とのルームシェアに限界を感じた私は、更新を切っ掛けに一人暮らしをすることを決めたのだ。退去日は相方がバイトを入れてしまったので、私一人で立ち会いすることになった。室内は禁煙にも関わらず相方は自室でバカみたいに煙草を吸っていた為、相方の住んでいた部屋を見た大家さんは「これはひどいね」と呆れ果てていた。散々お世話になったのに、壁紙もエアコンもタバコのヤニでまっ茶色の状態で私一人だけが立会をすることは本当に申し訳なくて、一度下げた頭が中々上げられない状況が最後まで続いた。

 相方は連日のように居室でタバコを吹かし、飲酒しながらネット配信やギターの弾き語りを昼夜問わずで行っていた。なので近隣からは苦情が殺到していた。大家さんはその事実を知っているので「本当にすみません」と謝罪する私には一切嫌味を言わなかった。居室の修復は幸いにも、入居時に前払いしたルームクリーニング費用と敷金の範囲内で済んだが、キャッシュバックがたったの3000円だったので、当時転居後で金欠に喘いでいた身の私としては本当に辛かった。新ネタも書いてこなければお笑いライブにも出ない、居酒屋バイトを週6で行っている相方にその事実を伝えたところ、「全額佐藤にやるよ」と太っ腹感を出して言われたが、風呂場で平気でおしっこしたり、泥酔で料理してキッチンの一部を焦がしてしまった末に一切部屋掃除せずに退去しているようなヤツにそんな事を言われると、さすがにこの時は「理不尽だな」と不満を募らせてしまった。

 退去時の部屋掃除は勿論私が全部やったし、住んでいる間は近隣からの苦情が私にまで飛び火してくることが頻繁にあった。入居時に私一人だけで粗品を持って引っ越しの挨拶に伺った際笑顔で返してくれた下の階の老夫婦からも「あのキチ〇イをなんとかしてくれよ」と怒声交じりで懇願されたし、ただすみませんと謝ることしかできない自分に対しても不甲斐ない気持ちを募らせるばかりの二年間だった。

 その後、私は三鷹、相方は西荻窪に転居したのだが、一人暮らしを始めてからの相方はちゃんと換気扇の下で煙草を吸うようになっていた。酒に酔って夜中や早朝に大声で喚いたりギターを弾き語ったりもしなくなっていたので、相方の人格を本気で疑った。三鷹の新居に招待した際も、よっぽど居心地が悪かったのか30分程で「帰る」と言い始めた挙句、帰り際「お前の部屋、ハムスター小屋みたいやな」と一言吐き捨てて帰っていった。

 その後、金銭の節約も重視して埼玉住みの彼女の家へ転がり込む形で同棲をはじめたのを切っ掛けに三鷹の家は引き払ったのだが、相方はバイト仲間との陰口や自身のSNS上で「あいつは女と埼玉に逃げた」などと私のことを非難し続けていた。ネタ合わせの際の交通費は一切惜しまずに出費していたし、いつも必ず私の方が西荻窪まで出向いていた。にも関わらずこの処遇には、さすがに開いた口は塞がらなかった。一方、相方が私の住んでいる埼玉県の最寄り駅まで唯一足を運んでくれたのは、解散の申し出を告げに来た日が最初で最後であった。しかも、最後のその日ですら四時間も遅刻してようやくやってきたのだから、彼はもう本当に救いようがない。

 埼玉県の彼女はその後私の妻になった。
 元相方との解散後、妻から中野で行われるお笑いライブや落語の寄席に誘われて、渋々観に行くことは幾度かあった。正直言って、一人で理由もなく中野に行こうなんてことは絶対に思わなかっただろうし、妻に誘われたからと言って理由をつけてみたところで、中野へ足を延ばすのは内心億劫だった。なぜなら中野を歩く私の頭の中では、元相方と過ごした苦痛の日々と、極々稀にあったバカみたいで楽しい思い出が交互に再生されて、頭の中がモヤモヤしてしまうからだ。

 元相方と私は、中野のお笑いライブを中心にエントリーしていた。しかし、その日のネタの出来とその日の機嫌、果ては「セフレと会うから」などの呆れた私情を理由にしてライブ出演の当日無断キャンセルと欠席を繰り返すイカレた相方の尻拭いを日々行っていたこともあり、中野の街を歩く時の私は、無意識のうち表情や口調に喜怒哀楽をにじみ出させてしまうのである。正直言って執筆時以外に中野に関連する出来事を思い出すようなリスクは犯したくない。だから私は仕事などでよっぽどの必要性がない限りは中野に単身で乗り込むことがないように気をつけている。

 しかし外出先でいつも私の横を歩いている妻からすれば「そんなこと知らんがな」なわけで、妻曰く、普段から何を考えてるか分かり辛く表情の変化にも乏しい私の顔面が喜怒哀楽に移り変わる様が唯一垣間見えるのが『中野駅』らしい。
 ある時私が喜怒哀楽交えて止めなく中野の記憶を語り続けていると、妻から「アンタがちゃんと血の通った人間なんだなって実感できるから中野はある意味ホッとするよ」と皮肉を言われてしまったよ。

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