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「できない」が「できる」に変わった、サンディエゴでの出来事。

バドミントンの練習をしようと大学の体育館へ向かって歩いていると、自転車に乗った若者が、私の目の前で止まって話しかけてきた。

「君バドミントンできるの? 僕もできるんだ!」


15年ほど前、私がアメリカのサンディエゴという街に赴任していた時の話だ。

私の持っていたラケットに気づいて声をかけてきたのは、一回りほど年下のアメリカ人の男子大学生だ。

うまく英語を話せなかった私は、「イエス」とだけ言ってその場を離れた。

その数週間後、私の所属していた大学チームの練習に、彼も参加していることに気づいた。

バドミントンに自信があるから声をかけてきたのだろうという、私の予想に反し、まさかの初心者だった。まだバドミントンを始めたばかりのようだ。

日本人が「バドミントンができる」と言えば、かなりの経験者だと相場が決まっている。初心者なのに「できる」と言える人は、まあいないだろう。

なぜ彼は自信を持って「できる」と言えたのだろう。しばらく心にひっかかっていた。


それからしばらくして、私の意識が大きく変わる出来事が起こる。

その日、バドミントンの練習相手をしてくれた女性にお礼を言いたくて、
片言の英語でこう伝えた。

「サンキュー。本当はもっと話したいけど、僕は英語が話せないんだ。」

彼女はちょっと不思議そうな顔をして、こんなことを口にした。

「あなたは英語を話しているじゃない。あなたの英語うまいよ。」

「それに、うまく話せなくても、ちゃんと気持ちは伝わるから、ノープロブレムだよ。」


ハッとした。


確かに、片言だが私は英語を話していた。そして感謝の気持ちも伝わった。

うまく話せないことを、全く話せないことと同じだと考えていたことに気づいた。

もし、自分は英語を話せないと決めつけて、話すことを諦めていたら、彼女に気持ちが伝わることはなかっただろう。

そのあとも彼女は、片言の英語しか話せない私を不憫に思うこともなく、普通に話してくれた。

聞きづらい英語など全く気にする様子もなく、私のことや日本のことにも、興味深く耳を傾けてくれた。

つたない英語でも、こんなにコミュニケーションがとれるんだと驚いた。


そういえば、あの「バドミントンができる」と言った男子大学生も、確かにできていた。

できる/できないを周りの人たちと比較して判断などしていなかった。

少しでもできれば、自信をもって「できる」なのだ。


できるかできないかを、1か0かの二択で考えるのは、日本人の悪い癖だ。

人より明らかに優れていることしか、「できる」と考えない。

ちょっとはできるのに、自分でできないことにしてしまう。

本当はできるのに、できないと思い込んで、やること自体を諦める。

やってみたら、思わぬ成果を得られたり、予想もしない展開が待っているかもしれないのに、その芽を自ら摘んでしまうのだ。

できると思えばもっとできるようになるが、できないと思えばそこで終わる。

あの2人の学生が、そのことを私に教えてくれた。


サンディエゴでの、この体験が私の思考を変えた。

何に対しても勝手にできないと決めつけるのをやめた。

何でもできると信じてやってみるようになった。

失敗しても、やり方を変えれば必ずできると思えるようになった。



できないと思っていることのほとんどは、できることだ。できないと思い込んでいるから、できないだけだ。

あれから15年たった今でも、その考えが変わらないのは、きっと真理だからなのだろう。

私は2年前に会社をやめ、昨年、前職とは全く関係のない、バドミントンのネットショップを始めた。

商売の経験も、ネットショップの知識も、WEBデザインの知識もほぼゼロだったが、何となく未来像を描けるだけで、私にも「できること」だと思えた。

ライター経験もなければ、登壇した経験もないのに、noteで自分の知識と経験を伝える活動も始めた。

昔の私なら絶対にノーと言って諦めることを、今の私はしている。

もしサンディエゴに行っていなければ、もしあの2人に会っていなければ、起業することも、noteを書くこともなかったかもしれない。

人生とは何とも不思議なものだ。


(見出し画像:サンディエゴダウンタウンの街並み)


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