『成瀬』の爽快感はどこから来るのか?
本屋大賞にも選ばれて話題になった『成瀬は天下を取りにいく』と、その続編『成瀬は信じた道をいく』。
成瀬と幼馴染の島崎を中心に、様々な人の視点から語られる小説である。
読んでいて気持ちの良い、爽快感のある本だった。
成瀬がもし帰国子女だったら
本を読んで数日後、風呂に入っている時に、ふと思った。
成瀬がもし帰国子女だったら、作品の印象は変わるんだろうか?
仮に、成瀬が生まれてすぐ、親の仕事の都合でアメリカへ。
そこで小学校を卒業した後、日本に帰国して中学に入学という設定だとしたら?
その場合、どうしてだか作品の爽快感が半減してしまう気がする。
なぜなのだろう?
どうやら、成瀬が日本文化の中で育った人であることが、この作品の爽快感にとって重要なようだ。
日本文化の中で育つことで、良くも悪くも、また多かれ少なかれ身に付くであろう「価値観の枠組み」。
もし海外で育った主人公が、この「枠組み」に捉われなかったとしても、それは当然なことで、読み手の心に爽快感を生まない。
成瀬が日本文化の中で育ったにも関わらず、その「枠組み」から自由でいるからこそ、爽快感が生まれるのだ。
日本文化の暗い側面
この作品には、爽快感と裏腹に、その「枠組み」の暗い側面が丁寧に描かれてもいる。
成瀬のクラスメイト、大貫の言葉である。
いじめを恐れ、目立たず孤立しないことを選ぶ大貫の目に、成瀬はどう映ったか?
クラスの中で、このように感じたのは大貫だけではない。
成瀬は、このように感じる人達との集団の中で育った。
にもかかわらず、そこでの「枠組み」から自由でいるからこそ、読み手の心に爽快感を生むのだ。
『成瀬』は絵空事?
実際によくある事、よく起こる事であったら、読み手はその内容にそれほどの爽快感を覚えないだろう。
ということは、この作品に書かれていることは、現実には滅多に起こらないということなのだろうか?
成瀬は、現実的なのか?
それとも、あくまで絵空事のフィクション?
たしかに、おみくじでは毎年大吉を引く、などと敢えて作り話っぽさを強調しているところはある。
けれど、自分が子供だった頃、学生だった頃、周りにいた人々のことを改めて思い出してみる。
成瀬のような「枠組み」に捉われていなかった存在が、案外、思い浮かんではこないだろうか。
見る島崎
一方、島崎はどうか。
もし成瀬のそばに島崎がいなかったら、どうなったんだろうと思う。
小学五年生の時に、「明確に無視され」「あからさまに仲間はずれにされ」た成瀬。
成瀬に「いじめを苦に飛び降り自殺」の可能性は無かったのか?
小学五年の危機的な時期、島崎に声をかけられた成瀬は言う。
これによって、成瀬は事態を打開した。
その三年後、中学二年生の成瀬が、また風変わりな活動を始める。
成瀬がそこで頼んだのは、一緒に映ってくれることではなく、ただ島崎が見てくれることだ。
「島崎さえ見ていてくれるなら、私は大丈夫だ」と、成瀬が思っている節がある。
おそらく、小学五年生の辛かった時期でも、島崎だけは成瀬を見ていてくれて、だからこそ持ち堪えられたという実感が成瀬の中にあるのではないか。
もしかしたら成瀬よりも得難いのは、
「成瀬を見るのは私の務め」と言い、
「できる限り成瀬をそばで見ていようと誓」い、
「これからも成瀬をずっと見ていられますように」と祈る島崎かもしれない。
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