成瀬あかりの欠落
『成瀬は天下を取りにいく』を初めて読んだ時、成瀬あかりは、まるで何でも出来るヒロインであるかのような印象を持った。
けれど、幾度か読み返すうちに印象が変わる。
成瀬あかりには、その内面に大きな欠落がある。
複数の人物がそれぞれに語る構造
この作品では、各短編が別々の登場人物の目線で語られている。
こうした形式をとる小説は多いが、ここでは特徴的な二つの作品を挙げてみたい。
一つは、ミラン・クンデラの『冗談』という小説。
ここでは、ほとんどの主要な登場人物に、その人物が自分で語る章が与えられている。
けれどその中で、ルツィエという登場人物にはそれが与えられていない。
その結果、ルツィエの本心は、周囲の人物の語る(時には矛盾する)内容から推測する以外になく、本当のところは読者にもわからないまま残される。
もう一つの作品は、橋本治の『その後の仁義なき桃尻娘』。
桃尻娘シリーズの中の一冊であるこの本でも、複数の登場人物が、章ごとにそれぞれ自分の視点から語っている。
その中に滝上先輩という人物がいるのだが、彼の章はそのほとんどが「・・・・・・」で占められる。
これはルツィエの場合と異なり、語る場所は用意されているのだが内容が無く、滝上先輩の内面の空っぽさが表現されている。
成瀬あかりの語りの薄さ
成瀬あかりの場合、この二つの例では、より後者に近い。
つまり、成瀬自身の語りパートが無い「ルツィエ」型ではなく、成瀬自身の語りパートはあるが、内容が薄い「滝上先輩」型である。
『成瀬』の六つ目の短編「ときめき江州音頭」は、形式的に成瀬自身の語りパートになっている。
けれど最初に読んだ時、成瀬の語りがあまりにも弱く、この作品の構成上の欠点なのではないかと感じた。
しかし幾度か読み返し、この作品が細部まで入念に作り込まれていることがわかるにつれ、重要な成瀬の語りパートで、この著者がそんな大きな構成上の欠点を残すだろうか?という疑問に変わる。
そして今では、著者は意図的にこのように書いたと考えている。
つまり、物事をどう感じているかといった成瀬の内面がそれほど書かれていないのは、成瀬の内面に(少なくともそれを言語化できるレベルでは)それが存在しないことを表現している、と。
成瀬の内面に欠落したもの
成瀬あかりの内面にあまり無い、言い換えれば、成瀬が感じ取ることが非常に不得手な事とは何だろうか。
まずは、他の人の気持ちである。
例えば、大貫に声をかけた時のことが、成瀬の視点から語られる箇所。
ここは、成瀬が相手の気持ちに忖度せず、「道理」に従って大胆に行動する、読み手にとっては魅力的にも映る部分だろう。
ただ同時に、成瀬の内面では大貫の感情をうまく感じ取ることができていないのではという印象も受ける。
また、上のこととも関係するが、自分の発言や行動が周りの人達へ及ぼし得る影響も、成瀬にとっては感じ取り考慮に入れることが難しそうである。
ここも、成瀬の魅力と表裏一体の部分ではあるのだが、周囲への影響を上手く想像できないからこそ、成瀬はこのスタンスを維持できるのでは無いだろうか。後に、成瀬は次のように語る。
これは成瀬がようやく、自身の内面の欠落に気づき始めた場面なのかもしれない。
成瀬の気づかない無数のファインプレー
さて、成瀬はこうしたことを感じ取ることが非常に不得手で、その結果、彼女の内面から欠落している。
これだけの欠落があれば、周囲との関係はもっと悪くなっても不思議ではない。
しかしこの作品の中では、ともすれば成瀬がヒロインであるかのような印象を持つ程、気持ちよく物事が進む。
その謎を解く鍵は、島崎を始めとした成瀬の周りの人達の、成瀬との接し方にあるのではないか。
成瀬の気づかない(或いは作品に書かれてさえいない)所で、島崎や周りの人達が、成瀬とのコミュニケーションにおいて、無数のファインプレーを繰り出している。
それによって初めて、成瀬の欠落が問題にならないばかりでなく、魅力的にすら見えてくる、そんな仮説を立ててみたい。
懐の深いコミュニティ
残念ながらまだ膳所を訪れたことはないのだが、著者が大津に住んでいること、そして「膳所から世界へ!」というフレーズが作品の中でとても印象深い形で使われていることを考え合わせると、もしかしたら膳所には、無数のファインプレーを繰り出す懐の深いコミュニティがあるのかもしれない、との期待を抱かせる。
少なくとも著者にとってはそう感じられる、或いは、その兆しくらいは感じられるコミュニティが。
しかし同時に、もしこの本の人気が、現実では味わえない気持ちよさをフィクションであればこそ味わえる、というものなのだとすると、
この本が本屋大賞をとるほどの大きな人気は、そんな懐の深いコミュニティがとても少ないという現実の反映でもあるのかもしれない。
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